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【小説を書く】 無意識が意識を凌駕する

小説「骨の消滅」をなんとか書きあげて、ほっとひといき。

その後、コメント欄を見て驚いたのが「構成、展開、全てが計算されていて」いると評していた方がいらしたことだ(中西さん)。

書いている本人にしてみれば、右往左往の極みであった。あっちいったり、こっちいったり、あーでもない、こーでもないと、いじくりまわしては、なんとか完成したようなしろものだったからである。

なぜ、そのような印象を受けるだろうと実に不思議だった。

ただ、一つだけ思い当たることがある。

それは話を進める途中で無意識が意識を凌駕する瞬間を感じることがあった。

具体的な例を挙げてみよう。

第四章「ぼくは神話探偵」の中で、小野一家が登場し、自分の家に主人公を招待する場面がある。

いつものように、実はそんな予定はなかった。

登場人物たちは翌日、出雲大社を参拝する予定にしていたので、大社近辺のホテルに泊まる予定にしていた(小野家に泊まったために、結局、出雲大社には、時間の都合上、行けなくなってしまう)。

しかし、大黒山へ登山することで夕方になってしまい、宿泊の心配を誰かがしないといけない状況になってしまった。もともと、主人公は学生なので貧乏旅行を基本にしていたので、車中泊のエピソードも入れたかった。そうなると、「それではうちに泊まれば?」と小野俊太がしゃべるのが最も自然なように思えた。だったら、神庭荒神谷遺跡や大黒山に近いほうがいい。というわけで、道の駅・ひかわに近い場所を小野家に定めた。

その家が湯の川温泉の麓になった。このときは何気にその場所に定めたのだけど、考えてみたら湯の川温泉はヤカミヒメとゆかりのある温泉地である。

ヤカミヒメは登場人物の出身地である鳥取の神様。もちろん、このエピソードは知っていたけれど、すっかりそのことは忘れて何気に宿泊場所に選んでしまって、あとから気づいたというのが実際のところだ。

まるで無意識ではあるけれど、脳内の無意識の中に誰かが住み着いていて、誘導しているようなそんな感覚になった(小説家の皆さん、そんなことってあるのでしょうか?)。


同じように、小野俊太という登場人物をつくったときも、そんな感覚を覚えた。俊太は神話好きなのだけど、さすがに小学生で神話が好きなのはちょっとおかしいなと思った。なんとか説得力がほしいものだということで、東日本大震災で両親を亡くしたエピソードが加わることになる。そこで俊太は声を失うのであるが、これは「古事記」の中のホムチワケ伝説を下敷きにしている。そして俊太は導かれるように出雲に来るようになり、神話に興味を持つ。それが唯一の命綱であるかのように。

結果として、俊太は肉親を失うという深い哀しみを背負うことになる(ごめんね、俊太)が、それが最後のクライマックスである「骨の消滅」のところで活きてくることになる。これも偶然なのだけど、なんだか無意識の中の存在を感じた瞬間でもあった。

まるで、無意識の中に、質実剛健な船長がいて、確かな水路を発見し、彼に死ぬまで忠実な15人の荒くれ者たちがオールをこいでいるように。


そんなことって、小説を書いているみなさん、あるのでしょうか?


ヘッダー画像はかなかなさんの画像をお借りしました。ありがとうございました♪


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