「骨の消滅」 第四章 ぼくは神話探偵
「もしも」ということばは歴史では禁句だが、もし神庭荒神谷遺跡の発見がなかったとしたら、出雲神話の存在はもっとあやふやなものだっただろう。
1984年7月、出雲の地に史上最大の発見といってもよい、神庭荒神谷遺跡の青銅器群が出土した。銅剣358本、翌年(1985年)には銅矛16本、銅鐸6個、実に圧倒的な物量であった。ここから出雲神話の再発見が始まったといってもいい。
出雲は神話の国といわれて久しい。それは「古事記」や「出雲国風土記」に多数の出雲神話が掲載されているからである。しかし、それは架空の物語であって、実際にあった史実ではないというのがこれまで大半の見方であった。ところが、神庭荒神谷遺跡の青銅器の発見によって、この日を境に出雲を見る目が一変することとなる。やはり出雲神話は史実に基づいたものだったのだと騒ぎ立てられた。県外からも大勢の研究者が訪れ、喧々諤々の議論があり、否が応にも盛り上がったそうだ。
見てきたかのように話す出雲さんにふと疑問を抱いたが、実をいうと出雲さんの父親は地方紙・山陰新聞の記者だったそうで、当時会社に徹夜で張り付いていたらしい。もともと家に帰ってくるような人でなかったらしく、父親に対するよいイメージは持っていないらしい。ただ、その当時の話はよく聞いていたらしく、いつも無口だった父親が熱心に青銅器の発見のことを語るのを聞くのは辟易したという(同じことを聞かされている、ぼくの身にもなってほしいものだ)。
記者をやめてからしばらくして体の不調を訴えるようになり、病院で検査してもらった頃には末期の肺がんを患っていたという。もともと重度のヘビースモーカーであり、一日に何箱も吸っては、浴びるように酒を飲んでいたのだから、病気になるのも仕方あるまいと本人もあきらめていたらしい。その数か月後、お父さんは静かに息を引き取ったという。
そのときの出雲さんの心情を聞くことはできなかったが、ひょっとして出雲神話に関する並々ならぬ情熱はお父さんのことも影響しているのではと尋ねると、出雲さんは何をいっているんだとばかりに即座に否定した。
だけど、ぼくにはそのとき気付いたのだ。
出雲さんが嘘をつくときは右の耳がピクリと動くのだということを。そして、少しだけ出雲さんの気持ちに触れることができたことも。
*
田園の広がる出雲平野を横目に「神庭荒神谷遺跡」と書いてある大きな看板を左に折れると、車1台通れるような細道がくねくねと山麓まで続く。
麓の谷の一番奥に出雲史上最大の発見といわれる「神庭荒神谷遺跡」があった。2000年もの間、一度も試みられることなく永い眠りについていた青銅器群。それを発見するのは、偶然でなければ至難であったろう。隅々まで道路が行き届くようになったこの時代でなければ、発見は不可能だったと思える。それくらい誰も来ないような場所だった。
今は荒神谷博物館と周辺に公園もできて、GWだったこともあり、まばらであるが観光客がちらほら見受けられた。
ぼくらは駐車場に車を止めると、さっそく神庭荒神谷遺跡の青銅器群に歩を進めた。右手に荒神谷博物館が建てられており、左手にはトイレと簡易の案内所のようなものがあった。
案内所横の細道を左に進むとすぐに案内板が設置されていた。ところどころ傷んではいるが、歴史の重みを感じる案内板だった。
細道を歩いていくと、目の前にハス池が広がっていた。6月の終わりにはハスが綺麗に咲くという。
蓮池を横目に細道を歩いていくと、藪の向こうにいいようのない雰囲気が漂ってくる。ついに神庭荒神谷遺跡の青銅器群を目の当たりにした。それは意外なほど静かな場所だった。神聖な場所とは、案外そういうものなのかもしれない。
斜面左に358本の銅剣が4列に並べられていた。そこから凡そ7メートル離れたところに6個の銅鐸が頭身を寄せるように整列していて、その横には銅矛が16本並べられていた。
発見された当時、これは要らなくなったから捨てられたのだろうという意見や、丁寧に並べられているから捨てるまではないまでも使われなくなったから埋納したのだろうという意見が出たというが、さもありなんと思わせる場所だった。逆にいえば、よくこんな辺鄙な場所で青銅器が見つかったなというのがぼくの正直な感想だった。
そんなとき、さっきからチラチラとこちらを伺っていた老人がおもむろに近寄ってきた。白髪であるが、背筋はピンとしていて、60代前半を思わせる容姿だった。(あとで78歳と聞いて驚くことになる)。
「きみたちはどこから来たんだね?」
出雲さんはかかわりになりたくなさそうだったので、ぼくがかわりに「鳥取市から来ました」と答えると、「へぇ、因幡からわざわざ」と出雲神話の国ならではの答えが返ってきて、ぼくは内心笑ってしまった。
老人の名前は小野作州。博物館前にあった案内所で遺跡案内のボランティアをしているという。そして聞いてもいないのに、神庭荒神谷遺跡の説明をしだした。この場所から約3キロ先に仏教山という、古代で神名火山と呼ばれた神山があり、そこを祀っていたという説もあるという。
そのとき、にわかに出雲さんは興味がわいたようだった。
「それは違うと思いますよ。むしろ大黒山のほうが関係しているでしょう」
老人はそれを聞くとニヤリとし、「ほほう、何故そう思うかね?」と出雲さんに問うてきた。それから二人はぼくをそっちのけで、立ち話を30分くらいし続けた。
「いやぁ、君たちは気に入ったよ(ぼくはなにもいっていませんが)」
そして「もし、大黒山に興味があるなら、今から登ってみるか」と驚くべき提案をしだした。「ぼくらは山登りに来たわけではありませんから」と慌てていうと老人は軽蔑したように僕を一瞥し、深いため息をついた。
「君たちは富士山を下から見たときに富士山を知った気になるのか、それとも富士山を登り終えてから富士山について知るのか、どちらだい?」
「何をこの老人はいっているのだ」と、出雲さんも同様に思っているだろうと思ったら、すぐに「登りましょう」と一声。
おい、おい、おい・・・。
時計はもう午後の3時を過ぎたところだった。
人生ってやつは、いつだって山(大黒山)あり、谷(荒神谷)ありときまっているのだろうか・・・。
*
ひょんなことから(ひょんなことばかりだ)旅の途中で、ぼくたちは山登りをすることになった。
老人について神庭荒神谷遺跡を後にすると、ハス池のあたりで遊んでいた小学生らしき男の子に小野さんが声をかけた。
「おーい、大黒山に登るぞ」
すると、少年は駆け足でぼくたちのところにやってきた。少年は老人のお孫さんで、名前は小野俊太。小学6年生になったばかりだという。6年生の割には背が低いなと思ったが、本人もそのことは気にしているらしい。
「じっちゃん、この人たちは神話に詳しいのかい?」と俊太が聞くので「こちらの出雲さんのほうはかなり詳しいみたいだぞ」と小野さんが答えると、俊太はじっと出雲さんを観察し、「へっ」と馬鹿にしたようにこういった。
「出雲神話の真実はぼくが見つけてみせる。じっちゃんの名に懸けて!」
やれやれ、ここにも名探偵がいるようだ。
まぁ、こどものいうことなので、可愛くもある。そう思って、出雲さんの顔を見ると、まさかの真剣な表情でこう言った。
「出雲神話の真実を見つけるのは、残念ながら君ではない。このぼくだからだ!!」
大人げない・・・。
そう思ったが、これから登ることになる大黒山のことが気になり、それどころではなかった。
大黒山は標高315メートルの山で、近所の小学生のハイキングコースにもなっているという。それを聞いて、少し安心した。それくらいなら1時間程度で登れるだろう。
登山口に小野さんのトラックと出雲さんのN-BOXを停めて、さっそく登り始めた。小野さんと俊太は流石に登り慣れているようで、どんどん先へ進んでいく。ぼくも負けじとついていくが、出雲さんは山登りに慣れていないらしく、登り始めてから10分で息が荒くなり始めた。
「ぼくはね、山登りなんて嫌いなんだよ」
では、なぜ率先して登ろうとしたのかと思ったが、出雲さんには出雲さんの理由があるのだろう。
しかし、先頭を歩いていた俊太が振り返って「おい、出雲。だらしねぇなあ」と笑うものだから、出雲さんもむきになって登っていく。顔を真っ赤にして、汗を流しながら無理して登っていく出雲さんを見ていると、なんだか可哀想にも思えてくる。それにしても、俊太は出雲さんをライバル視しているのか、出雲さんに厳しい。
登り始めてから1時間が過ぎたところで、ようやく頂上に到達した。頂上には兵主神社という小さな神社が建っていた。大国主命とスクナヒコが祀られているという。
地元では伝説が残っていて、大国主命とスクナヒコが国造りをするときに、この地から陸地や内海を眺めて相談したのだそうだ。
「国造り」とは大国主命はスクナヒコとともに協力して葦原中つ国を造ったという国造り神話のことである。
「この大黒山は二つの意味で重要なのだが、出雲君、わかるかい?」
そう小野さんが問うと、出雲さんはすぐにこう答えた。
「ひとつはこの場所で大国主命とスクナヒコが国造りの相談をしたこと、もうひとつはこの大黒山を囲むように神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の青銅器が埋められていたことですね」
小野さんは嬉しそうに「正解だ」と答えたが、俊太は「ぼくでも知っているよ」とライバル心剥き出しだ。
そう、出雲さんがいうように、この地ではもう一つの出雲史上最大の発見というべき加茂岩倉遺跡の銅鐸群が見つかっている。
神庭荒神谷遺跡が発見されてから12年後の1996年10月、加茂町(現雲南市)岩倉で農道建設工事中に銅鐸が発見された。驚くことに、その数39個。もちろん、一か所で見つかった銅鐸としては日本最多であった。
さらに神庭荒神谷遺跡の銅剣に刻まれていた「×」印が加茂岩倉遺跡の銅鐸にも刻まれてたことから、この両遺跡の使用者は同一者達ではないだろうかと騒がれた。
「加茂岩倉遺跡の銅鐸群は「出雲国風土記」の神原郷に記載されている大国主命の積み置きし宝と位置が一致することから、大国主命と青銅器も関連付けることができますよね」
そう、出雲さんが答えると、俊太はまたも口をはさんできた。
「そんなことは、ぼくも知っている。それよりももっと重要なことをぼくは推理したよ」
おじいさん、この小さな探偵を少し黙らせてもらえませんか。そうおもったのは、ぼくだけではないだろう。しかし、このときも出雲さんは興味津々に小僧の話を身を乗り出して聞いていた。神話探偵が二人もいるとは・・・。
*
大黒山からは出雲が一望できた。
古代出雲では今の宍道湖がもっと西側まで迫っている入海だったという。その当時、宍道湖に流れている斐伊川は神戸水海(今の神西湖)に流れており、出雲平野は湿地帯のような状態だったそうである。
古代にこれほどの天然の良港はなく、まさに日本一の潟湖だったといってよい。そして俊太はこの日本一の潟湖こそが大国主命とスクナヒコが考えた国造りに関係しているのではというのである。
「前におじいちゃんにしじみ漁につれていってもらったことがあったじゃん」
ちなみに小野さんの職業は代々受け継いでいるしじみ漁を生業としていた。夏になると朝の6時から船でしじみ漁にでるという。早朝にしじみ漁に出てくる船は約300艘で、朝日を浴びて宍道湖に浮かぶ何艘もの船の雄姿は圧巻だという。
「あのとき、ぼく思ったんだよ。大国主命とスクナヒコは古代出雲の各地で、各々がめいめいに行っていた船の交易をひとまとめにしたんじゃないかって」
小野さんは俊太の話を嬉しそうに聴いていた。出雲さんも思うところがあるようで静かに聴いている。
「出雲を統一したのは、別々に行っていた小さな交易を、ひとまとめの大船団を作ってより大きな交易にしたかったためなんじゃないかと思うんだ」
なるほど、出雲神話の大国主命とスクナヒコの国造りは日本各地に伝説を残しており、各地との交流を表しているのではと前々からいわれていた。そして、そのような交流の痕跡は遺物として各地で発見されている。出雲の青銅器群だって同じ鋳型で鋳造したものが各地で見つかっている。ただ、そのような大規模な交易が古代出雲で可能だっただろうか。
「実をいうと、ぼくもそれについて考えたことがあるんだ」と出雲さんが静かに語りだした。
そして、その大規模な交易が可能な仕組みは高天原こそがふさわしいという結論に至ったそうだ。
高天原は天照大神が統べている国である。本来ならスサノオが海を治め、月読命が夜を治めている。つまり高天原は女王国といってよい。そしてスサノオは海を治め、大規模な交易をおこなう(ひょっとしたら、イザナギもそのような役目を担っていたのかもしれない)。女王である天照大神が亡くなれば、次の女王がすぐに即位する。大規模交易には理想的な統治方法だ。
「ところが、出雲神話は女王の国ではなく、実際は大国主命とスクナヒコ達が国を造った。そこでもし、大国主命が亡くなると、次の王は男性ということになる。しかし、その息子は大規模交易で何か月も出雲に帰ることはできない。そうすると出雲の統治はどうなる?政治的空白が続くような統治方法は成り立たない」
「それじゃあ、ぼくの推理が間違っているというのかい!?」
出雲さんに馬鹿にされたと思ったのか、俊太はくってかかった。
「いや、そういうわけではない。何か別の統治方法があったんじゃないかって話だよ」
「まぁまぁ、続きは帰ってからでもよいじゃろ。そろそろ日も傾き始めていることだし」と小野さんが話を挟んできた。今日はどこに泊まるんだいと尋ねられたので、そういえば旅館やホテルの予約はしていないなと思っていたが、出雲さんは「道の駅で車中泊をするつもりだ」とまさかの返事。どうりで、「宿泊の件は心配するな」と出雲さんがいっていたわけだ。
「だったら、うちにとまればいいじゃん。空いている部屋もあるしさ」
俊太がそういうと、小野さんもよかったらどうかなとすすめてくれた。願ったり、かなったりだ。道の駅の狭い軽自動車の中で足を曲げて寝ることを考えれば、断然そっちのほうがいい。ぼくたちは小野さんたちの厚意に甘えることにした。
*
大黒山を下りて、ぼくらは小野家へ向かった。
小野家は国道9号線沿いにある道の駅・ひかわ横の信号を南に折れ、矢上比売で有名な湯の川温泉街に向かう緩やかな登り口手前にあった。
湯の川温泉
八上比売は、大国主命を慕って、はるばる因幡の国から出雲の国に来たけど正妻の須勢理比売が嫉妬深いと知り、引き返すことにした。
途中、身も心も疲れた矢上比売が腰掛けたところから温泉が湧き出で、その湯につかると、以前の美しさにもまして美人になったという。
「因幡から来たぼくたちが矢上比売が浸かったといわれる伝説の温泉の地に泊まることができるなんて、なんて偶然なんだろう」とぼくがいうと、小野さんは「今日はその温泉の湯にも使ってもらうよ」と嬉しそうに話してくれた。
道の駅・ひかわでは湯の川温泉のお湯を引いていて、そのお湯を販売しているという。小野さんも軽トラックに積んだポリタンクにそこのお湯を満タンに入れ持ち帰って、お風呂に入れているという。これは何よりうれしい。
小野家は昔ながらの田舎の家で、垣根で囲まれた家の周りにはこまごまとした野菜が植えられていた。庭は丁寧に剪定されており、小さな池まであった。小野家の生活はつつましさの中にも、凛とした美しさが感じられた。
夕食をごちそうするので、先にお風呂に入りなさいといわれ、出雲さん、ぼくの順番でお風呂をいただいた。確かに温泉のお湯を使っているせいか、肌にしっとりと馴染む気持ちのいいお湯であり、旅の疲れが体からすっと抜けていくのが分かった。
お風呂から上がると、出雲さんと俊太が神話について熱く議論している最中だった。この二人の熱量は傍目に見ても異様だ。大の大人と子供が年齢に関係なく、ここまで熱くなれるものかと、いまさらながら感心させられた。
小野さんが用意してくれた食事は、旅館でいただくよりよほど豪華に思えた。宍道湖で捕れた鮒のさしみに、ウナギのかば焼き、そしてシジミ汁。庭で採れた野菜を使った漬物や煮物にいたるまで、ぼくらは腹いっぱい御馳走になった。
俊太と小野さんがお風呂から上がると、出雲さんを交えて再び出雲神話談議に花が開いた。小野さんと出雲さんは酒が入ることにより、よりボルテージが上がったようだった。にわかに信じがたいことだが、小野さんの話によれば、出雲民族は稲佐の浜で国譲りを強要され、涙ながらに国を明け渡したのだという。
まずもって、出雲単一民族なるものがこの地だけにいたのかあやしいものであるが、こう話すことによって(酒のせいもあるのかもしれないが)、ますます話が熱を帯びていくのだった。
「聞け!! 出雲民族の涙の絶叫を!!」
そういって、赤ら顔の小野さんが「うぉーーーーーーお!!」と叫び始めたのには驚いた。それに呼応するように、俊太も「うぉーーーーーお!!」と唱和し始めた。ぼくは内心、呆れて引いた眼で見ていた(出雲さんも、さぞ、げんなりしているに違いない)。ところが、出雲さんも一緒になって「うぉーーーーーーお!!」と叫び始めた。
おい、おい、おい。勘弁してくれよ(苦笑)
そのとき、玄関の扉ががらりと開いた。
「おじいちゃん、玄関先まで聞こえてるよ! 近所迷惑になるからやめてよ!!」
そういって中に入ってきたのが小野翔子さん。小野さんの孫娘で、俊太の姉であった。
ぼくは彼女のあまりの美しさに一瞬、息をのみ込んだ。出雲さんにいたっては息をするのも忘れたようで、お酒を飲んでも顔に出なかったのに、今では耳まで真っ赤になって、口をパクパクさせていた。
そのとき、出雲さんは14回目の恋に落ちた。
*
翔子さんは地元の印刷会社に働いており、GW中なのに遅くまで仕事があったのだという。
「姉ちゃんは2年前、ミス出雲にも選ばれたんだぜ」と俊太は、真っ赤になった出雲さんに自慢げに話し、何やら耳打ちしている。
「もう、俊太ったら、その話はやめなさい。小さなコンテストで参加者も少なかっただけなんだから」と翔子さんが恥ずかしそうに弁解すると(おそらく大きなコンテストでもきっと選ばれることだろう)、俊太はこういった。
「明日は出雲(なぜか出雲さんだけ呼び捨てだ)と圭ちゃんに出雲の観光案内するんだ」
「もう、俊太ったら、二人にご迷惑でしょう」
あれ、そんな話聞いていないけど、と思ったら、さっきの耳打ちはその話だったらしく、「お姉さん、ぼくらは暇なので喜んで案内してもらいます」と出雲さんが即座に答える。
「さ、明日も早いから、出雲、もう寝ようぜ」といって、出雲さんと俊太は寝室にいってしまった。また、そこでもひそひそばなしをしているようだった。どうやら出雲さんが翔子さんに一目ぼれしたのを俊太に見破られたらしい(それはそうだ、ぼくでもすぐにわかった)。
小野さんも明日はシジミ漁があるから、そろそろ寝るといって寝室にいってしまった。なんと、ぼくと翔子さんだけがテーブルに残されてしまった(といっても、何が起こるわけでもないけれど)。
「あんなに楽しそうな俊太は久しぶり」
急にしんみりと話す翔子さんの目に少し涙が見えたのを、ぼくは見逃さなかった。
翔子さんの母、つまり小野さんの娘さん(一人娘だったそうだ)が岩手に嫁いだのが今から28年前。その後、翔子さん、そして少し時間が経ってから俊太が生まれた。静かな幸せな日々はいつまでも続くように思われた。しかし、あの日、それは一変した。東日本大震災が起こったのである。
そのとき、翔子さんは丘の上の中学校に通っており、幸いにして無事だった。しかし、俊太の両親は、俊太の目の前で津波の濁流に流されてしまった。
まだ、幼子だった俊太の衝撃は想像を絶するに余りあり、それから口もきけなくなったという。しばらく父方の親戚に預けられていたけれど、一向に口を利かない俊太に戸惑うばかりの翔子さんたちだった。しかし、あるとき、ふと俊太が「いずも・・・」と声を発したという。それは母親の故郷だった。
母親の生まれ故郷・出雲にいけば少しは環境も変わり、俊太にもいい影響があるのではと思い、翔子さんと俊太はすがる思いで、小野さんのところにやってきたという。
初めのうち俊太は塞ぎがちだったが、小野さんの寝物語だった出雲神話にだけは耳を傾け、次第に片言ながら会話ができるまでになったそうだ。
時間は、ときにひとにやさしい
しかし、ひとが常にやさしいとは限らない
次第に興味を覚えた出雲神話にのめり込むあまり、小野さんとはうまく会話できるようになったものの、その調子だから学校では友達もできず、次第に休みがちになり、今に至っているという。
だから、俊太がぼくらとあんなに楽しそうに話しているのを見るのは、翔子さんにとっても、とても驚きだったようで、ほんとうにありがとうございましたと両手をついてお礼をされた時は、かえって恐縮する思いだった。
ひょっとして、出雲さんは本能で俊太の哀しみを感じ取ったのではなかろうか。そんな気がしないでもない。
ただ、隣の部屋で出雲さんの腹をまくらに寝ている俊太と、いびきをかき始めている出雲さんを見ていると、ただの偶然のような気もしないでもなかった。
明日は鳥取に帰らないといけない。ゆっくり出雲観光する時間はないけれど、せっかくの俊太の思いに答えたい気持ちも少しある。
そして今だから言えることだけど、ついに我々は出雲神話の真実に触れることになるのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?