![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/95786194/rectangle_large_type_2_3d7fdffd1d34a435042ec84a882290a4.png?width=1200)
母親の愛 -すべての受験生たちへ-
人の見える範囲なんて、たかがしれている。
ぼくはときどき、そう思う。人間の目はどう頑張っても、動かなければ120度くらいの範囲しか見えない(いや、もっと狭いのかもしれない)。よって鏡などを使わなければ、どんどん無残にも抜け落ちていく、ぼくのてっぺん禿げをみることはできない(それは見たくないものだ)。
このように人には必ず死角というものがある。それはほかのものにも例えることができる。
例えば、ぼくは長いこと出雲神話の真実にたどり着くために、いろいろ調べてきた(四半世紀もだ!)。そのためにいろいろな神社も歩き回った。しかし、出雲神話と関係ないと思われる神社や寺はほとんど見に行っていない。つまりは、そこのへんのことはごっそり抜け落ちているのである。
今年の正月、息子の大学受験の合格祈願に菅原天満宮を詣でた。
もちろん、当然ながら菅原天満宮は知っていた。知ってはいたが、出雲の神様とあまり関係ないので、詣でることはなかった。菅原天満宮とは学問の神様・菅原道真公を祀った天満宮。菅原道真といえば、福岡の太宰府天満宮が有名だ。
菅原道真は大宰府で不遇の死を迎えたのだから、そこに菅原道真の魂を沈めるのは当然だろう。ということは、なにか訳あって、菅原天満宮に分祀でもしたのかぐらいに思っていた。
ところが、菅原天満宮は菅原道真公の出生の地であるという。
菅原道真公の父君、菅原是善卿が出雲の国庁に御在任の時、菅原氏の祖先、野見宿禰(のみのすくね)のお墓をたずねて菅原の里(当時は山田村という)においでになりました。その時ご案内をした乙女が卿のお気に入り、国庁に召されてお仕えすることになりました。
是善卿は任期が終わり、京都にお帰りになることになりましたが、この女の方は懐妊しておられ、菅原の地に帰って玉の御子をお産みになりました。
この御子が道真公であります。御誕生は承和十二年(西紀八四五年)六月二十五日、御幼名を鹿児丸君と申し上げました。鹿児丸君は幼い頃から才智すぐれ、草をとって筆とされ、石の凹みを利用して硯とされ、筆硯に親しまれたと申します。
公の六歳の春、母君はこの草深き地におき奉るべきでないと意を決し、公を伴い都に上がり、是善卿の邸に入り、南向きのお庭の老梅のもとに公を立たせおき立ち去られました。やがて是善卿がこれを見いだされて、「そなたは誰か」とおたずねになると、母君に教えられた通り「私は父も母もありません。卿を父君と仰ぎとうございます。」と申され、奇しきご縁の御父子が御対面になったのであります。
天歴五年(西紀九五一年)四月、菅原の地に御宮を建てて〔菅原天満大自在天神〕と仰ぎまつり、その後七百余年を経て、松江・松平藩祖・直政公が御信仰篤く、寛文三年(西紀一、六六三年)六月二十三日、東北地方の羅漢松(くさまき)と称する名木を以って、新しく社殿を御造営になりました。(現在の本殿がその当時のものであります。)御扉には五彩の雲に金泥の双龍が描かれており、これは狩野永雲の筆によるものであります。
その後、松平家累代の藩主が御造営・御祭祀につとめられましたが、明治五年以後、この菅原地区の氏神様としてお祀りするようになり氏子の方々はもとより県内外の多くの崇敬者の尊崇を得て今日に至っています。
*
出雲神話でこどもを置いて帰った神様といえば、矢上比売(やがみひめ)だろう。
矢上比売は大国主命の最初の奥さん。因幡の白兎の予言の通り、大国主命は矢上比売を娶ることができた。
しかし兄神達の嫉妬にあい、大国主命は殺されそうになる(実際は何度も殺された)。そこで母神が大国主命を逃がしてやるが、兄神達は執拗に大国主命の命を狙って追ってくる(どんだけ矢上比売を娶られたことが悔しかったんだろ)。
そこで、大国主命は出雲のスサノオを頼って、出雲にやってくる。そこで出会ったのがスサノオの娘・スセリヒメ。一目で二人とも恋に落ちてしまった。
さて、ここで因幡の矢上比売が登場する。実は矢上比売は既に大国主命の子を生んでいたのである。大国主命が出雲に帰ってきていると聞こえ聞き、因幡からこどもをつれて出雲の地に矢上比売はやってくる。
すると、そこには既に正妻・スセリヒメを娶っていた大国主命がいたのである。
スセリヒメはとても嫉妬深い方で、大国主命の矢上比売の存在を許すはずがなかった。そこで矢上比売は諦めて、因幡の国に帰ってしまう。そのとき、出雲の木の俣にこどもをそっと置いて帰ったという。
*
ひるがえって、菅原道真公も同じように母親によって(良かれと思ってだろうが)、父親の邸宅に(それも梅の木の下に)置いて帰られてしまった。機縁というしかない。おそらく、その時の気持ちは矢上比売のものと同じものだっただろう。
その後、菅原道真公はその才能もあり、とんとん拍子に出世し右大臣にまで上り詰める。そして左大臣・藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって九州の太宰府に左遷させられ、その地で生涯を終えた。その際、道真公の左遷を悲しんで梅の木も一緒に九州についていったという。ひょっとして、ついていった梅の木は母の魂がこもっていたのかもしれない。
そんなありもしないことを考えてしまった。
出雲でも、先週は急に気温が上がり、梅の花が咲いたところもあったとか。
ところが今週はまた寒さが戻ってくるという。受験生の皆さんはこのような目まぐるしい天候で大変だったでしょうが、もうひとふんばり!
頑張ってください ♪
*
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
出雲にお越しの際は菅原天満宮や御井神社にもお立ち寄りください。
母親の愛がそこにはあることでしょう ♪
お待ちしています m(_ _)m
このヘッダー画像はちびひめさんのイラストをお借りしています。ありがとうございました。
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
よかったらご覧ください ↓ ↓ ↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?