見出し画像

「人生をいじくりまわすべきではない」

先日大学の図書館の片隅で珍妙な題名の本を見つけた。それが「人生をいじくり回してはいけない」という水木しげるによるエッセイ集である。私はいわゆる鬼太郎5期と言われる、平成初期のアニメ版鬼太郎が好きだったので真っ先にこの本を読むことに決めた。表紙には水木しげる本人の笑った顔写真が掲載されていて不思議な雰囲気を醸し出している。


私が開発・運営中のアプリです

題名を見ると教訓めいたものを想像するが、本の内容はほとんど作者の人生にまつわるものである。水木しげるという人の歩んだ一生は決して平坦なものではない。戦場へ行って片腕を失う、という一文だけでも凄まじいものを感じる。

この本の偉大なところ、というより水木しげるという作家の偉業はこの時代への語り口にあるだろう。戦争前後は決して明るい時代ではなく、普通に語るならば重苦しい雰囲気が立ち込める文章になるが、かといってそれらを避ければ中身のない文が出来上がってしまう。しかしこの本はそのどちらにも傾かず、いわば水木しげる独特の「のんき」な語り口を感じることができるのである。

もちろん「のんき」一辺倒ではなく「あと一歩間違えば死ぬ」というような場面の緊張感のある描写もたくさんある。また現代社会に対して疑問を呈するような部分も見受けられる。しかしこのどれにも一貫した思想があるような感覚になる。それは一種の無常感である。

無常感というと、私たちはつい無欲な僧侶のようなイメージを感じるが水木しげるのそれはこれとは異なる。むしろ生命力に基づいた無常感ともいえる。何度も引き合いに出されるマラリアの話はこれをよく表している。

戦場でマラリアが悪化し、動けなくなり自他ともに死を覚悟するような状態であったにもかかわらず、現地人の持ってきてくれた食料によって回復したという逸話である。奇跡ともいえる出来事だが、考えようによっては自然に命を左右されたともいえる。これに戦場での単純な偶然によって生死が決まる状況を合わせらば、我々は単に見えない何かに「生かされている」のではないかという考えもよくわかるだろう。

自分一人で生きてきたようにみえるが、幾度となくくぐりぬけてきた危機を考えてみると、とても自分一人の力で生きられるものではない。いろいろな目に見えない親切の糸によって我々は生かされ ているのかもしれない――そんなことを考えながら穴の中で寝ていると、ぼくのために芋畑を作ってくれた原住民の老婆が、ぼくには大地の神性ともいうべきものをそなえた、大地の母に見えてくるのだった。

『人生をいじくりまわすべきではない』

水木しげる生前最後のインタビューはゲーテにまつわるものだった。本人曰く『ゲーテとの対話』は何度も読み返したそうである。戦地に行ってからはあまり読まなくなったそうだが、それでも尊敬する人物はゲーテひとりのままだったらしい。

水木しげる、最後のインタビュー「生死について、人間について、自分が抱えていた疑問に答えてくれたのは、ゲーテの言葉だった」() | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

本人はゲーテの作品よりも人となりに興味があったそうだが、よく見てみると二人の作品には共通する面も多い。もちろん影響を受けた部分もあるだろうが、そうでなくても考え方に共通点のある人間が生み出すものには形式や時代の違いがあっても似たところが必ず出てくるものである。

例えば、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』や『親和力』に見られる理性を超えた人間の不思議な情熱やそれに対する崇拝を描いていた。物語中盤に主人公がアルベルトに対して行う自殺に関する抗議は現代でも鬼気迫るものがある。

ゲーテはこれを恋愛に向けた心情として登場させたが、水木しげるの漫画に登場する「奇人変人」たちは恋愛以外に理不尽な情熱を向けた人々だともいえる。また、妖怪という存在はこうした説明不能な感情がなければ生まれてこなかっただろう。

例え妖怪の仕業だったと思っていたことが科学的に証明されたとしても。それを見出した人間の本質自体は科学や論理での説明を受け付けないものに違いない。お化けや妖怪の伝承はこの不可思議な人間の本性を裏付ける証拠だといえる。

水木しげる本人の話に戻ると、最も有名な鬼太郎の構想自体は意外と偶然のものだったらしい。いまやトレードマークの「目玉のおやじ」も、亡くなったはずの父親を登場させるための苦肉の策だったそうである。しかしこの思いつきが現代でも唯一無二なことを考えると、これも「いろいろな目に見えない親切の糸」の一つだったのかもしれない。

故郷の「水木しげるロード」の銅像を見た話も面白い。鬼太郎たちの像から感じる力について触れている部分があるが、確かに私たちは幾何学的なオブジェより愛嬌のある銅像ばかり覚えているものである。

「ゲゲゲの女房」のようなドラマ、また鬼太郎のアニメや漫画も面白い。しかし水木しげる自身の文章もぜひ触れてみるべきだと思う。世界に妖怪をみるということはどういうことか、またそれに至った思索を少しでも覗くことができるからである。

考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。

ゲーテ『格言と反省』


いただいたご支援は書籍の購入に充てたいと考えています。よろしければサポートよろしくお願いします。