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エンタメとアート

美は常に人間の目標の一つでした。数多くの芸術家や哲学者が生涯を捧げ、今も多くの人々が立ち向かっていることでしょう。しかこれと近いものに心地よさ、快楽といったものがあります。美をもたらすのが芸術だとすならば、単なる快楽を与えるものは娯楽と言ってよいでしょう。

娯楽、英語で言うところの「エンターテイメント」は日本では略されて「エンタメ」と呼ばれることもあります。芸術と娯楽は同じ場面で使われることがあります。例えば、この映画が芸術なのか、単なる娯楽なのかという批評家のコメントを目にすることがあります。この二つはどう区別すればよいのでしょうか。

持続性

美は飽きることがありません。それは個人だけにとどまらず、世代や時間を超えていくものです。モナリザを「見飽きた」という人にはおそらく出会ったことがないはずです。

快楽というものにはどうしても飽きがきてしまいます。斬新な手法であっても、単に感覚を刺激するだけであるならいずれ慣れが訪れるようになります。劇でも映画でも、流行の筋書きが使い古されてしまって、やがて廃れていくのはよくあることです。

芸術としての美を持っている場合、いくら模倣品が出てきたとしてもその原作は生き残っていくことになります。シェイクスピアに影響を受けた作家は星の数ほどいたでしょうが、その多くは見る影もありません。一方でその本家たるシェイクスピアは現代の日本ですら輝きを保っています。

純粋さ

美は純粋さを持ち、変動性や有用性を超えています。もちろん死後評価される芸術家は数多く存在しました。しかし、その後何世紀も受け継がれていくことを考えるとその間隔というのはささいなものです。また、いわゆる功利主義的な「役に立つ」ものでもありません。

投資の対象のように扱われる作品ということも考えることができます。この場合は確かに一種の通貨のような有用性は持ち合わせていると言えます。しかし、このような取引が全く行われなくても芸術品は成立します。

無限性

美はそれぞれで完全であり、簡単に優劣をつけられるものではありません。例えば、素晴らしい音楽を聴いている最中にもっと別の美しい音楽があると思っているとしましょう。この場合では聴いている本当に音楽を美しいとは感じていないといえます。

単に娯楽のためならば必ずしも完全なものである必要はありません。むしろ、つくりは粗くても気楽に見られるものの方が気晴らしには向いています。


へつらいの無さ

感覚に反することがあることも美の特徴の一つです。感覚をもとにする快楽はこれを行うことが不可能です。多くの人の感覚を逆撫ですることは芸術作品ではむしろ手法のひとつとさえ思われていることがあります。

ジャン・ジュネの『泥棒日記』は退廃的な同性愛と犯罪を扱った小説です。そうそう簡単に飲み込める内容ではありませんでしたが、芸術的には高い評価を得ていました。獄中にいた作者を釈放するよう、大統領宛の嘆願書が出されたほどです。

普遍性

美しいものを見るとき、人はこれを人類全体として享受しているような気分になります。一種の公的な意味を持つものとして考えることもできるでしょう。

個人的なものである快楽をもとにする娯楽は、私的なものに留まることができます。普遍的なものである必要性はありません。仲間内や、小さな輪の中でしか共有されない楽しみというものも存在します。

それぞれの役割

ここまでの説明を聞くと娯楽に不利な面が多く感じるかもしれません。しかし誰しも感覚的な快楽を全くなしで済ますことはできませんから、娯楽もまた必需品だということができるでしょう。人はパンだけで生きるわけではありませんが、パンなしで平気だというわけではありません。

しかしもし音楽や戯曲、映画などを全てを娯楽に、「エンタメ」に還元してしまうなら芸術の入る余地は失われてしまいます。芸術と娯楽にはそれぞれ役割がありますが、これらの健全な関係を保つには批評を行う受け手だけではなく、創作者の理解も必要不可欠です。

詩をこの世から追い払っているのはだれだ?
詩人たちだ。

ゲーテ『西東詩篇』

誰でも気軽に創作、批評ができるようになった時代だからこそ、改めて芸術と娯楽の関係について考え直すべきなのでしょう。


参考

『人間の条件』ハンナ・アレント
『シンボルの哲学』S.K.ランガー


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