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プログラミングと「いま」の学びについて

知識0から半年でアプリを完成させました。これは大学生がその経験から「いま」の学びを考えた文章です。

「わたしたちがいまできること」について考えるのは難しいことです。助け合いに参加したい!誰かの役に立ちたい!という思いはあっても、できることは限られています。

無力感であったり絶望感であったりといった理由から思ったように行動できないこともあります。

私もそういう考えに陥っていました。世界中の優秀な人々が頑張ってくれているんだから、じっと待って耐えていれば大丈夫。どうせたかが二十歳の大学生にできることなどないさ。

そう思ってもなにかやりきれない思いがありました。知らずに活力を奪っていくという点では、過酷な状況に対して自分が何もできないという無力感とは、時に単純な不安よりも恐ろしいものかもしれません。

もちろん、だれかのためになにかできることを考えるのも大切ですが、まずは自分自身がなんとか不安から脱することも必要です。

私自身も自分に何ができるか、ということについてはまだはっきりしていませんが、それでもなにか皆さんの助けとなれば幸いです。

それでもできたこと

私は2020年9月、プログラミングをはじめました。しかし、当時の私には
志などはなく、また将来に役立てようという気すらありませんでした。

「前から気になってたし」、「時間ならあるし」、「できたらカッコいい」まったくそのくらいの心持ちで始めたことでした。パソコンさえあればいいし、臥薪嘗胆とまでいかなくとも、なにかやってれば気が紛れるかも。

私のそんな目論見が蜂蜜の如き甘さであったことに気づくのは、「プログラミング 勉強」で検索をかけた直後のことでした。

どうやらプログラミングとひとくちに言っても、プログラミング言語という種類の違いによって得意分野なんかも違うらしかったのです。

何にしろ、はじめに言語ありきということです。しかも結構プログラミング言語の種類は多く、Java、PHP、Python、C++、などなど、ずらずら。

ここからひとつ選ぶべきなのですが、もはや読み方すらわからない奴らもいます。私はすっかりこのデジタル百鬼夜行に圧倒されてしまいました。

臥薪も嘗胆も忘れて、マシマロでも食べて横になってしまおうと思いましたが、もう少しだけ我慢することにしました。

これは別に何か目的とか、義務とかがあるわけじゃない。やりやすいのでいい。そう自分に言い聞かせて、なんとかマシマロに甘んじないように考え直しました。

すると、Swiftという言語に目が止まりました。これは元々Appleが成立に関わったものらしく、iPhoneアプリが作れるらしいのです。プログラミングの勉強に必要な「環境」というやつも我がMacBookAirで簡単に何とかなるらしいとわかりました。

これならなんか楽しそう!すっごいアプリとか作れたりして!めざせ第二のスティーブ・ジョブズ!なんてにわかに調子に乗った私はこのSwiftを勉強することに決め、目標をアプリの完成に定めたのでした。単純なものです。

アプリというものは使っている側はなんとも思わないようなことが、意外と苦労の種となったりするものなんです。

もちろん、優秀なプログラマの方々がやりたいことを実現するための手段はもうすでに用意してくれています。しかし、不慣れな私にとってはそれでも大変なものでした。

たとえば、メモ帳のアプリを想像してください。なにか書いて保存する。
するとコンピューターはこんなふうに言ってくるでしょう。

それ、どこに保存します?
アッ、戻るボタンを押された。でもどこに戻ればいいんです?
ホーム画面って言われてもそれは聞いてなかったですよ。
見たらわかるって言われてもなァ。ちゃんと書いといてくれないと。エッ、メモの日付は秒単位にしましたよ?我ながら気が利くってカンジ!

融通の利かない人をコンピューターのような人だという事がありますが、今回の相手は本物のコンピューターです。頭の硬さはチャンピオン級。

しかし、一方で自分の思ったことを実現できたときの嬉しさは相当なものでした。達成感はもちろん、その日一日なんとなく満足して過ごせたものです。

また、エンジニアやプログラマーの方々の親切にも助けられました。ちゃんと探せば解決方法は誰かが編み出しているし、質問すれば優しく答えてくれました。

誰かの助けを借りられるということ自体が精神助けになりました。本当に頭の上がらぬ思いです。

実はこれ以外にも、アプリアイコンの作成、Webサイト必須の発覚、データとの突然の離別、Apple審査との死闘、Webサイト不要の真実など色々と苦難の道はあったものです。

しかし、これらは伝えたいこととは直接関係ないので泣く泣く割愛したいと思います。

半年間の苦難の末、ついに自分のアプリが天下のAppStoreに並んだ時の感動は凄まじいものでした。

それを伝えるAppleからのメールはひどくあっさりした事務的なものでしたが、私が「よっしゃあ!」と叫ぶには十分でした。我が子がなんとか世界に羽ばたいたのを見て、ゆっくり休みました。

さて、私はここから得た知識を役立てられないかと思い、途中から健康管理アプリを作ることを目標に決めました。

病院に行きづらいなら、ある程度は自己管理に頼る必要がある。でもそれって意外と大変で面倒なことです。それを自分の手でなんとかできないかと思いました。

また、この先も継続して同様な取り組みを続けられるよう、学生団体も設立することにしました。これからはより多くの人に対してできることを探していきます。

以上のことは私の実体験です。
※ホントの話?と思う方はこちらをどうぞ!
アプリのページ団体のサイト


学ぶということで、まず少なくとも自分自身に
対してはできることがあった
、ということがわかってもらえたと思います。


ここで大事なのは、最初からなにかをしよう!と立ち上がったわけではないということです。実際、もし最初からそんなに気負っていたら勉強は楽しく続けられていなかったでしょう。

いま、学ぶということ

もし世界の終わりが明日だとしても私は今日林檎の種子をまくだろう。
                           ゲオルグ・ゲオルギウ

目的や目標を持って勉強するのは、大事なことです。「年間〇〇冊読書!」なんて目標を掲げている人はスゴイと思います。

けれど、「私にはとてもそんな事できない」と思って尻込みしてしまうなら、
それはもったいないことです。

使命がなくとも、魔が差したような興味本位で何かを始めてもいいはずです。
むしろ、具体的に注目していないからこそ、広い視野から新しい発見ができることもあるはずです。

もし飛んでいく鳥だけを熱心に見つめていれば、背景たる青空の美しさを見逃してしまうことはないでしょうか?。

何かを知るということは楽しいことですし、たとえ家でじっとしていてもできることですから、まさに「いま私たちにできること」です。新しいことを知ることは楽しいことですから、無理せず始められることでしょう。

小さい頃の日々が印象強く記憶に残るのは、新しいことに毎日触れていたからではないでしょうか。新しい知識を得る、好奇心を満たすというだけでもこれで十分楽しみを味わえるというものです。

さらに新たな知識は、その人に新たな世界観、価値観を与えるものです。

これは戸田山 和久氏の『教養の書』でも指摘されていることですが、同じものを見てもどう感じるか、ということはそれを感受する人の知識によると言ってもいいでしょう。

また、他人への理解や寛容さなどといったことも、困難に協力して立ち向かうときは必要不可欠です。

新しい交流の場が減り、体験でそれを身につけるのが難しいなら、やはり知識によって育んでいく必要もあるでしょう。

このことからも、まず自らの内面を養っていくこと、それがかつてない混乱した状況でも他人のことを思いやれる精神的余裕を生み出すのに必要だといえます。

いま、表現するということ

角を曲がれば、待ってるだろうか、
新しい道が、秘密の門が。
今日はこの道、す通りしても、
明日またこの道、来るかもしれぬ。
そして隠れた小道を通り、
月か太陽へ、ゆくかもしれぬ。
              
            トールキン『指輪物語』

最近ではインターネットは知識を得る手段だけでなく、そこから得たものを表現したり活用するものとして利用することも可能になりました。このnoteもその好例と言えます。

完成したあなたの作品はまずその達成感からあなた自身を幸福にしてくれることでしょう。

もしかすると、先述したように時に不安も生むことがあるかもしれませんが、表現という段階までくれば他の人への助けともなることができます。

あなたの作品に元気づけられる人もいれば、救われる人もいるかもしれません。内容はもちろん、創作におけるあなたの勇気や努力それ自体も色んな人に影響を与えることになるでしょう。

自分の作品が他の人の助けともなる、このことはあなた自身を再び不安から引き戻してくれるはずです。冒頭で述べた無力感なんてものはもう克服したようなものです。つまり表現とは、自他ともに精神的助けとなりうるものであるということです。

しかし一方で、世間に目を向ければ自分よりも優れた人が多くいて、
自信が持てなくなることもあります。

参考のため、と思って文章やイラストを探した時に素晴らしい作品を見つけて、
自分の表現の乏しさが目についてしまう。検索エンジンを使えば、ボタン1つで何万もの作品が見つかることでしょう。

また、ついつい周囲の反応が怖くなってしまうこともあります。こんなことなら謙虚な観客のままでいようと、そうしてゴミ箱への憂き目にあった作品のなんと多いことか!

ただ、そこで物怖じしてはいけません。たとえ先にたどり着いた人がいたとしても、その先でなんと言われようとも、それまでの道のりで得るものはあなただけのものです。きっと、あなただけの隠れた小道が見つかることでしょう。

おわりに


さて、色々と述べてきましたが、以下を私の結論としたいと思います。
「いま私にできること」とは、新しい知識を得る、そしてそこから何かを創り出してみる、この2つを行うということ。

そしてそのための勇気を持つということです。この勇気は自分を含む多くの人を救うことができるはずです。

希望と怖れは切り離せない。
希望のない怖れもなければ、
怖れのない希望もない。
ラ・ロシュフコー伯爵『道徳的生活』

いまこそ勇気を持って希望を掴むときだと、そう信じています。

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