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大切なものは、サムネにはあらわれない

いきなり自分語りになります。今を遡る事20年以上前の話。

高校3年生の英語リーディングの授業で、1年間かけて『星の王子様』の英訳(原文は仏語)を読む課題が課せられていました。
4月にクラス全員に、『The Little Prince』と表紙に書かれた絵本が配布されました。

どういうふうに授業が進んでいったのかは覚えていませんが、ある時先生がこの一節を黒板に書きました。

"It is the time you have wasted for your rose that makes your rose so important."

Antoine de Saint-Exupéry, The Little Prince

私の下手な訳で申し訳ないのですが、直訳すると「きみがきみのバラのために無駄にした時間こそが、君のバラをとても大切なものにするんだ」というような意味ですね。

「"waste"(無駄にする) ―これが重要なんだ」というようなことを、先生は言いました。
ちなみに、私たちに渡された絵本には "waste" ではなく "take" が使われていました。
「"take" じゃ足りない。ここは "waste" なんだ。本当にみんなに読んで欲しかったのは別の英訳本なのだけれど、今は手に入らなかった。」

私はこの言葉を受けて、この部分に「費やす」という言葉をあてはめたような記憶があります。
「時間をかける」ではきっと弱いから、少しでも徒労感のある言葉を選ぶことで、なぜ "waste" でなければいけないかを知りたかったのだと思います。

星の王子様とバラの話

王子は自分の星でたった一本の美しいバラに出会い、そのバラのお世話をします。
バラはわがままで、ついたてを立ててくれだの、ガラスのカバーをかけてくれだの王子にねだります。
ある日、王子とバラはケンカをして、王子は星を出ていきました。

上の引用は、地球で出会ったキツネが王子に言った言葉です。
キツネと仲良くなる中で、王子は誰かが自分にとって大切な存在になる過程(そしてそのまた逆も)を知ることになります。
(はしょりにはしょっていますので、気になる方は読んだり読み返したりしてみてください。)


かけがえのないものは、多分誰にも理解されない

王子がバラのために使った時間は、本当に「無駄」だったのか。
――無駄だったのだと思います。少なくとも、客観的に見れば。
どこにでもあるようなバラのために馬鹿みたいに手間をかけて時間をかけるのは、傍から見たらとても無駄なことです。

だけど王子にとっては、それこそがかけがえのない時間になったはずです。
そしてそのことは、王子にしかわかりません。
バラのお世話をしたのは、王子だからです。

そのバラの存在は、王子の身体や精神と結びついています。
そこに手間暇かけたのは、王子自身だからです。

『星の王子様』の舞台が現代だったとして、たとえ王子様がSNSにバラの花の写真や映像を上げても、きっと見向きもされなかったでしょう。
バラは美しいけれど、どこにでもある、当たり前の花なのですから。
かけがえのないもののかけがえのなさは、きっと一目でわかりやすく伝えることなんてできないのです。


「サムネ映え」に身体性はない

さて、私の推しはYouTuberなので、サムネに命をかけていると言います。
誰にでもわかりやすくて、瞬間的な刺激のような画像。

けれど映えるサムネからは身体性は感じられません。
そこには基本的に、何かと向き合うようなじっくりした時間はないから。
推し自身はサムネにじっくり向き合っているのかもしれないけど、見ている側から引き出したいのは、動画をクリックしてくれるような瞬間的で刺激的な関心です。

推しがしばしば言及する「数字に翻弄される」というその「数字」も、人間同士の交歓とは言えないものだと思います。

けれどそんな推しにも、身体はあるし精神もある。
交歓を優先しては生き(残っ)ていけないかも知れない世界で、身体と精神を抱えているわけです。


盆栽のプレゼント

先日、推しの一人の誕生日がありました。
グループのメンバーが贈ったプレゼントの1つが、とても小さな盆栽でした。

お世話の方法としては、毎日苔に覆われた土をもみながら水をかけてあげるんだそうです。
これ以上ないほどの、身体性のある "waste"。

プレゼントをあげた彼は確か「手の届くところに命がある」「毎日土に触る」みたいなことを言っていたと思います。
生命とか土とかが、感触のない世界を主戦場としている人に身体を思い出させてくれるかも知れません。

毎日土をもんで水をかける行為は、すなわちコンテンツにはならないでしょう。
たとえばお世話の様子を毎日配信したとして、いくら推しでも日々土をもむ姿を見せられたら飽きます。

でも、だからこそ。
数字という、身体や精神から離れた基準から遠ざかることで、取り戻せる自分がいるのかも知れません。
そこにはごく個人的な世界が、構築される余地があるのでしょう。


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