舟崎泉美
【小説】みんな見てる。
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【小説】みんな見てる。

舟崎泉美

 矢島綾は、孤独を感じていた。
 それは、妻子ある男性との恋に溺れていたからだ。

 綾は、仕事で知り合った一回り年上の水野尊と、一年前に恋に落ちた。
 それ以来、綾は水野への一途な愛を貫き通していた。しかし、水野は口では「愛している」と言っても、妻と別れるつもりはなく、来年小学校に入る子どもにも溢れんばかりの愛情を注ぎ続けていた。どれだけ彼を好きでも、彼との愛に未来は見えない。そうと感じた綾は、日々、満たされない思いを抱えていた。

 親しい友人にのみ、水野との情事を打ち明けた綾だが、どれだけ距離が近い友人でも、不倫の恋には冷たかった。
 友人たちは、良かれと思い、綾に対して強い口調で不倫を咎めるが言うが、綾は彼らのアドバイスにうんざりしていた。正論だけで生きられる人間がいるわけがない。理性で抑えきれない感情だってある。そうじゃなきゃ、人間なんて機械と変わらないじゃないか……、そう感じた綾は、友人たちと少しずつ距離をおいていった。
 きっと、彼らは間違ってるって言いたいだけ、上から目線でアドバイスしたいだけ、そんな奴らが、本当に私の心配をなんかしているわけがない。
 誰も理解してくれない……、誰もわかろうとしてくれない……。
 周りの意見をどんどん突っぱねていった綾から、友人は離れ、綾は更なる孤独に陥っていた。

「ねえ、明日、起きれるかな?」
 綾は、水野の腕枕に身も心も預けながら、甘えた口調で言った。
 離婚さえ望まなければ、綾と水野の仲は順調だった。妻と子が遠く離れた実家に帰っていない明日、二人は大阪・天王寺へと出かける。出発前日の今日、水野は綾の家に泊まりにきていた。二人は一緒のベッドで眠りにつこうとしている。
「大丈夫、俺が起こすから」
 水野は、優しい声音で綾の頭をそっと撫でる。綾は水野の腕の温もりを感じると、孤独から解放されていくのを感じた。

 明日の目的地は動物園だ。動物好きの綾は、前々から動物園に行きたいと言っていた。不倫という関係上、なかなか昼間の人混みを堂々と二人で出かけることができない。なので、関西の外れに住む綾たちは、妻と子のいない隙に、誰も知り合いがいない大阪まで足を運ぶことにしたのだ。綾は何日も前から、明日という日を心待ちにしていた。

 彼の腕の中でぐっすり眠りについた綾は、水野と共に天王寺動物園へと向かった。
 ゲートを抜けた二人は、腕を組んで園内を散策する。誰の目も気にせず、堂々と並んで歩く。綾は一分一秒がおしいとばかりに、憧れていた時間をたっぷりと堪能していた。

 そんな綾は、何かのきっかけでふと一人になる。そして、誰かに声を掛けられたような気がした。

「それでええんか?」

 それは、地面に響くような低い男の声だ。
 不思議に思い振り返るが、そこには誰もいない。綾が無視して歩き出すと「それでええんか?」と言う声が、もう一度聞こえた。再度、振り返る。
 誰もいないじゃない……? 綾が首を傾げると、ある動物と目があった。
「まさか……」
 綾は、檻の中にいるアムールトラの瞳を見つめる。いや、そんなわけがない……、綾が、水野の元へ戻ろうとしたその時。

「それでええんか?」

 明らかにアムールトラの口が動いたのだ。
「虎が、喋った……?」
 いきなりの出来事に、綾は茫然とアムールトラを見つめる。
 そんな綾にアムールトラは「そんな男とおっても、幸せになれへん」と語り掛ける。
「虎が、喋ってる……」
 茫然とした顔で立ち尽くす綾だが、アムールトラはそんな綾の様子など、おかまいなしにしゃべり続けた。
「なんで、不幸になるってわかっとって、そんな男とおんねん」
「なんでって……」
 驚き戸惑いながらも、綾はアムールトラの言葉を聞く綾。
「なんでか、わからんくて、一緒におんのか?」
「なんなの? 私は今、幸せなの。彼といても不幸になんかならない。たとえ、結婚できなかったとしても、愛する人といられるだけでいいの」
「後悔するに決まっとるやろ?」
「後悔なんてしないわよ。だって、彼のことを心から愛してるんだから。って、ちょっと、あんたなんなの? さっきから、不幸になるとか、後悔するとか、なんでも知った顔で……」と、そこまで言った綾は、我に返った。私はなんで、虎と話しているのだろう……?
 不思議に思うと同時に、アムールトラの言葉が、これまで友人に言われ突っぱねてきたものと同じだと気付く。なんで、虎にまで言われなきゃならないの……!
「私、もう行くから」
 綾はアムールトラから視線を外し、歩みを進める。しかし、アムールトラはしゃべりをやめようとしない。
「そんなやから、誰にも相手にされんようになる。一人ぼっちになるんや。そんなん、孤独で当たり前やろ? これから先、一人で寂しいなんて言うたらあかんで。年とって、結婚もせんで、家族も、友達も、あの男もおらんようなっても、絶対に泣きごと、言うたらあかんで。今の幸せは、これからの人生全部捨ててでも手に入れたい幸せなんか? そんなに大切なもんなんか? あんなん大した男やあらへん」
 そこまで、言われた綾は再びアムールトラに向きなおった。
「みんな私のことなんて気にしてない。だから、あなたもほっといてよ。たとえ不幸になっても彼との時間を大切にしたいんだから!」
 綾がそう叫ぶと、アムールトラの様子が変わった。突如、低く喉を鳴らしたかと思うと、勢いをつけて檻へ向かって突進してくる。そして、檻を突き破り、綾の頭めがけ、大きな口を開け、牙を突き出し襲い掛かって来た。

「誰も見てへんと思うな。みんな見とるんや!」

 脳にまで響く低い声が聞こえ、綾は「きゃあ!」と叫び声をあげた。

 綾は自分の叫び声で目を覚ました。彼女は夢を見ていたのだ。
 隣にいた水野も目を覚まし「大丈夫?」と言い、綾の頭をそっと撫でた。その柔らかな温もりは、彼女を悪夢から目覚めさせてくれるようにも感じられたし、更なる悪夢に落としていく甘い誘惑のようにも感じられた。

 気をとりなおし、準備をはじめた綾と水野は、車で天王寺へと向かう。水野の運転で流れゆく景色を眺め、他愛のない会話を続けた先には、夢のことなどすっかり忘れていた。

 天王寺動物園についた綾たちは、しばらく園内を散策する。
 少しでも、水野のそばにいたいと願う綾だが、生理現象は抑えきれず、絡ませていた腕をほどき、トイレへと向かった。用を足した綾は、トイレから出て、アムールトラの檻の前を通る。その時、忘れていた夢を思い出した。

 夢は夢だと思いながらも、なぜだか、アムールトラに見られている気がして足を止めてしまう。
 アムールトラは綾を見つめる。綾もアムールトラを見つめる。
 その瞬間、綾の頭に「誰も見てへんと思うな。みんな見とるんや」の声がよみがえった。
 急に恐くなった綾が、アムールトラから目を反らすと、近くの檻にいたチュウゴクオオカミ、ジャガー、ピューマなど、全ての動物が綾を見ていた。
 それは檻の外にいる動物も同じだ。観光客に与えられたエサを食べている鳩や、綾を見下ろすように旋回しているカラスもいる。
 動物だけじゃない。遊びに来ていた人々、全てが綾を見ている。そして、全ての瞳が綾に向かって何か言いたげだった。

「なに? なんなの? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
 綾は見ている人々に話しかけるが、誰も何も答えない。動物たちにも声を掛けるが、何も反応しない。ただ、彼らは何かを訴えるように、綾をじっと見つめていた。憐れむような、蔑むような目で。
 視線に耐え切れなくなった綾は「いやあ!」と大きな声をあげ、目を閉じ、耳をふさぎ、全ての五感を遮るようにしゃがみこむ。
 なんで、みんな見てるの? 私、なにか変? 何か、人と違うの? 普通に生きてるだけだよね? なんで、何も言ってくれないの? なんで、見てるだけなの? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。ねえ、ねえ、ねえ……

 それからどれくらいの時間が経っただろう。綾は「大丈夫?」という水野の声を聞き、我に返った。辺りを見渡すと、そこには先ほど変わらない愛らしい動物の姿や、動物を見てはしゃぐ人々の姿があった。鳩はエサを食べ、頭上のカラスも、もういない。
 白昼夢? 不思議に思いながらも立ち上がった綾は、ふと思う。あのような恐怖は、過去にも体験したことがあると。
 彼と出かけた写真を、彼の顔だけわからないようにSNSに投稿していた。彼の名前を出さずとも、彼の不満だとわかるように愚痴を書き込んでいた。その時、誰からも反応はなかった。でも、友人に会った時、必ず言われた。
「彼と仲良くって、うらやましいね」と、少し嫌味に、少しうらやましそうに。みんな見てないフリして見てた。きっと、私が言わなくても不倫だってわかってたのかもしれない。それは醸し出す雰囲気からかもしれないし、私が気付いていない間に、それとわかる言葉を入れていたのかもしれない。みんなわかっていても、わからないフリをしている、気付いていないフリをしている。

 水野は、優しい声音で綾の頭をそっと撫でる。綾は水野の腕の温もりを感じると、孤独というしがらみから解放されていくのを感じた。
 きっと、私は孤独じゃなかった。誰もわかってくれないと思っていたけど、そうじゃない。いい意味でも、悪い意味でも、何か言おうとしても、言えなかったんだ。それは、私が受け入れなかったのかもしれないし、言うべきじゃないと思ったのかもしれない。それとも……

 その時、綾の頭には再度、あの言葉が響いた。
「誰も見てへんと思うな。みんな見とるんや……」

 綾は、動物園を出る間際、絡めた腕をほどき、水野に声を掛けた。
「大事な話があるの……」
 みんな見てる。近くにいても、遠くにいても。憐み、蔑み、でも、時には見守っている。
 綾は、ようやく夢から覚め、現実を歩き出す自分を感じていた。

小説:舟崎泉美 イラスト:目黒雅也

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この物語は雑誌「クリネタ」38号に掲載されていたものを加筆・修正したのものです。

初出 みんな見てる。 雑誌「クリネタ」38号 2017年7月号


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舟崎泉美
小説家・脚本家・ライター。 小説『ほんとうはいないかもしれない彼女へ』(学研プラス)にて、第一回本にしたい大賞を受賞しデビュー。 小説や脚本を書いたり、作詞をしたり、映画を作ったり、アナログゲームを作ったりと、さまざまなクリエイティブに挑戦中。