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小説「止まる思考」

煮詰まってくると何か広いものが見たくなって、それで夕方に、近くの池に車を止めて、私は水面と同じく、思考が凪いでいくのを待っている。さざ波は時おり魚が跳ねるから起こるので、今日は無風だ。車のなかに籠城していると、音も臭いも遮断されて、至極簡単に世界の果てを感じることができる。

地球が丸い以上、どこに行ったって最果ての地だ。中心はない。 それはとてもいいことだと思うんだけど、そんなものは物理の偶然が産み出しただけのこと。あまりこだわらない方がいい。

私のこの癖は、子どものころよく面倒を見てくれた伯父に影響されるところが大きい。伯父の家は大きな田んぼや畑を持っていて、私が預けられると、伯父は水気の無い指で私の手を掴んで、畦道をのんのんと歩くのだった。子どものあやしかたを知らない伯父は仕方なく、いつも私を散歩に連れ出した。農作業の終わった夕暮れで、何故か記憶は刈り入れの終わったあとの冬景色ばかりだ。

広い場所を見ていると、私の思考は止まる。目の前の固い水面のように、自分がかちかちに固定されたようになる。いやが上にも動き回らなくては生きて行けない毎日を、どうにか生きていくためには、時々は無理にでもブレーキをかけなくてはならない。

エンジンを切った車内は蒼々として冷えていく。毛細血管の中身がそのまま空気の色に染まっていくのを感じる。

これでいい。今は、ただ流れるだけでいい、水も血も、時間も世界も。私は干渉しないし、されることもない。

こういう時間は必要だ。そして、いつかはこうして車のなかで、本物の地の果てに行けたらなと思って、もう水を見るのを止める。

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