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その日のために

     Ⅰ

私を覚えているか
白い雲の輪郭が金色に光る時刻に
私を包んでいた静寂よ
きょうの朝昇った太陽が
雲と作った疑問符を残して
どこに向かおうとしているのか
知っているか静寂よ

私に呼びかけるのは
私の網膜に投影された
逆さまの風景と
茎が折れたまま
花瓶に生けられた花のように
傷口を見せている追憶
海が教えてくれた
痛みでちぎれそうになった記憶も
治癒することがあると

      Ⅱ

午後の空をまとった
ガラス張りのオフィスビル
その十二階で
視えない惨劇が決裁される
決裁が済むと
演じ手たちは
『オルガス伯の埋葬』に描かれた
オルガス伯のような鉛色の顔をして
穴を掘り始める
埋葬が済んだ頃には
社員食堂の食券が売り切れている
嫉妬も憎悪も精算されることはない
ランチが済んだ頃には
市場に侮蔑が溢れている
午後からは
時間と体が同期しなくなる
笑顔が勝手にできたりする
表情筋の裏側で
悔しさが時間差で震えだす
空隙が自己増殖する
その空隙に言葉を打ち込めるか
あるいは
その空隙から言葉を外に出せるか
詩を一行書く
星間距離よりも遠い
自分自身に会えないと
まだ決まったわけではないから

エル・グレコ作『オルガス伯の埋葬』サント・トメ教会蔵(トレド、スペイン)

      Ⅲ

会社に行ってくるよ
うっさい
帰ってきたよ
そばに寄らんとって
父と娘が朝と晩に繰り返す
幸せの会話タイム
朝の三時半から
私の魔の時間帯が始まる
新聞配達の音
牛乳配達の音
遠くから聞こえて来る音
ひと通り終わると沈黙が続く
ゆうべテレビに出ていた政治家たちの顔が
頭によみがえる
手術台の上で
心臓を七針縫われているような
そんな気分になる
夜明けまで眠れない
この時間帯
ヘーゲルなら
もうとっくに起きて
講義の準備をしている最中かも知れない

      Ⅳ

希望も絶望も
言葉をいくぶん軽くする
テニスボールを壁に打ち続けている少女は
コートを替わることができない
ひとりでサッカーのキックを
練習している老人は
早すぎた約束を果たそうとしている
私は見る
掌の上に落ちた涙と一緒に
消え去ってゆくものを

空は
眩し過ぎる午後の空は
ビルディングを囲む透明な壁の
一枚一枚に閉じ込められた自分を
取り戻そうとして
雨を降らせる
その時
朝の太陽が雲と作った疑問符は
形を変えるだろう
生きることは
回復することだと
告げるために

      Ⅴ

夢は乾いていないか
顔を洗った後に
洗面台の鏡の前で点検する
朝の新しい日課である

 (詩集『月のピラミッド』第5章「再生のための十篇」より)


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