最期に美味しいものを食べられましたか? 死にゆく愛する人を見送るための「最期の食事」をテーマにした氷プリ17話〜21話について
父が死んだのは、2020年の夏。
生ぬるい澱んだ空気が妙に気味が悪い日だったのを、今でもよく覚えています。
コロナ禍の真っ只中ではありましたが、コロナではありませんでした。
だから父の死がテレビの死者の数に組み込まれることも、ありませんでした。
仕事場で、父の遺体が見つかったのは夜になってから。
死亡宣告はもうすぐ22時になるという時間だったかと思います。
ですが、その時間が本当に父が息を引き取った時間ではありません。
私たちは父の荷物からしか、父がいつこの世を去ったのか推測するしかできませんでした。
何故なら、父はその職場にたった一人だったから。
(ちなみに事件性は一切なく、突然死です)
父の遺体と共に父の職場の近くの警察署まで行き、父の荷物を確認した際、目に止まったのが、昼の弁当でした。
「全く手をつけていない……」
いつもと同じメニューの、よくある母の手作り弁当。
それを、いつも通りランチの時間で食べるはずだったものが、ただ虚しく詰められたままでした。
その後、棺に何を入れるかという話になった時に、お世話になった葬儀会社の方に
「あの日食べられなかったお弁当を入れて、お見送りしましょう」
とアドバイスをいただき、母はまた同じメニューを作りました。
それが、父に作る最期の弁当になります。
でも。
父の肉体はもう、それを食べることはできません。
そう考えた時、ふとこうも思いました。
「父は人生の最期に何を食べたのだろうか?」
「父は何を最期に美味しいと思ったのか?」
そして
「私は、最期に一体何を食べることができるのだろう」
とも。
この強烈な「死と食」の記憶が脳に焼き付けられたまま、2023年夏になり、この企画のベースを作ることが決まりました。
最初は本当に
「サーティワンでのアルバイト経験が長い」
「アイスが大好きだから語れる」
「見栄えも可愛くできるから、異世界の絵でも映えるだろう」
くらいの動機で、当初の企画でもラブコメベースになっていました。
転機になったのは、アイスクリームに関する資料を集めている時に以下の2つのページを見つけた時でした。
まず、ガリガリくんの記事については医療従事者の声として、以下の言葉が紹介されていました。
この情報をベースに「病気」「アイス」というワードで検索したり、自分や知り合いの実体験を振り返ると、確かに「体調不良の時にアイスクリームに救われる事例」は多かったです。
私も2024年の4月中旬ごろ、2日間程壮絶な吐き気と戦わなくてはいけない日がありましたが、唯一口にできたのはアイスクリームだけでした。
偶然ストックがあったことに、本当に感謝しました。
体とアイスの密接な関係については、アイスクリームの古い歴史の中でも言われております。
こちらの記事の中では、以下の記載があります。
これらから、アイスクリームの歴史と「健康」との結びつきは非常に深いものであることを知った私は、表向きは「可愛い異世界ラブコメ」を目指しつつも、裏側では「食と生死」をテーマにする構成を作ることに決めました。
このテーマを描く上で、重要人物に選んだのが「ティア」という少女でした。
食べることがとにかく大好きな、太陽のような女の子。
彼女の行動に計算は何1つなく
「いいものはいい!悪いものは悪い!」
がはっきりしているところも、魅力ポイントです。
ちなみにどれだけ食べるのが好きかというと
これを一人で平らげることができるくらい、です。
まさに「生きる=食べる」を体現している少女です。
そして主人公含め、この少女を嫌う者は誰一人おりません。
ずっと、一緒に生きていけると信じていた。
そんな大切な少女の死が間近に迫った主人公達が「食べること」「生きること」にどう向き合うかを、大きなテーマとして描いていったのが17話〜21話の展開でした。
父親の死は「突発的」でしたので、直前まで食事ができていたことは聞いています。
ただ一方で、ゆっくりと亡くなっていった事例も、私の身近にいました。
年齢は100歳を超えており、まさに大往生とも言えたその方の死は、数ヶ月前に身近に宣告されたものでした。
その理由が「食事が摂れなくなった」からでした。
こちらのコラムに書かれている通り、亡くなる前には「食べられなくなること」が自然の摂理であり、その方もまさに自然の流れに身を任せ、その生涯を閉じました。
つまり私たちが「食べられる」ということは「生きている」ということが繋がるということが、改めてわかる話です。
「食べることは生きること」という文言で検索してみると、たくさんの方がこれをテーマに執筆していらっしゃる記事や本も見つかるので、当然のものとして考えるべきでしょう。
ここまでが、ストーリーを作る大前提で知るべき情報。
そしてここからが、私の強烈な「死と食」に関する記憶に繋がっていきます。
死が迫り来るにつれ、体が生きるための行為を拒否してしまう。
かつてできたことができなくなってしまう。
そんな変化を周囲の人々は、抗いたいけど抗えない虚しさと戦い続けています。
自分たちが大好きだった、かつての姿をもう1度見ることができないだろうか?
これは、本人には決して言うことができない葛藤です。
きっと本人が1番そう思っている。
だから周囲がそんなことを言うのは違う。
だけどどうしても願ってしまう。
そう思ったことがある方は、少なくないのではないでしょうか。
ちなみに私は、会う度に老いていった祖母を見ながら、2度と会えない楽しかった日々の祖母を思い出しては悲しくなるという経験はあります。
このエピソードを考えていた時も、あの時の苦しさを思い出していました。
物語の中で、別れの時がきた際、ここはファンタジーとしての希望を入れたいと思いました。
本人の「食べたい」という願い。
周囲の「食べている姿を見たい」という願い。
せめてそれらが「叶うものである」と、表現したい。
そのため直接エピソードで描いた19話は、私がこれまでの経験から考えた理想の「最期の食事」でした。
最期に何を食べたいと願うのだろう。
改めて自分に置き換えた時、私は父との数多くの思い出と向き合うことになりました。
誕生日会で一緒にケーキを食べた記憶。
二人で遊びに行った公園で食べた梅干しのおにぎりの記憶。
などなど、子供の頃の幸せな時の記憶と共に、味が蘇ってきます。
そうだ。
「家族の幸せな時間」
これをテーマに、最期の食事として表現しよう。
そう決めた展開が19話の後半に描かれています。
詳細はぜひ、本編をお読みいただければと。
そして「最期の食事」にはもう1つ、「故人の肉体との最期の食事」も含まれています。
お通夜や葬儀で、私たちは故人を偲びながら何かを口にする習慣があります。
ただ、この日本の文化を持ってくるには、世界観が「西洋」に寄っていることもあるため、これをそのまま持ってくることは避けました。
これも、作品だからこそできるファンタジーな展開を考えて、21話で表現してもらいました。でも本質は変えませんでした。
あちらへ行ってしまった人のことを思い出して語り合う。
それが供養になり、残された者の心を救うことになるのだと、私は父の葬儀の時に関わってくださった方から教わりました。
死は、いつか必ず訪れます。
それが突然なのか、ゆっくりなのかは分かりませんが、来る時は、来てしまうのです。
だから私は、願わずにはいられません。
皆さんの最期の食事が、素晴らしいものでありますように。
そして好きな味の記憶を、あちらの世界に持っていけますように、と。
この、原案者が勝手に願いを込めてしまった作品を、本当にたくさんの方と一緒にこの世に出すことができたこと、私は死ぬまで絶対忘れない。
この場を借りて。
お父さんへ。
私の中にあるお父さんとの最期の食事の記憶は、偶然二人きりで語り合うことになった、ハワイ旅行中での赤ワインと柿ピーでした。
それはそれでどうなんだと思いますが、きっと私は何度も思い出すと思います。
お父さんはどうですか?
私との食事の記憶を持ったまま、旅立ちましたか?
その答えをもう聞くことができないのが、とても悲しいです。
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