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知らなかった自分に会いに行こう(『地の文のような生活と』制作雑感)

 書くことは基本的には私にとっては辛い営みだ。体力的にも精神的にも辛い。吹奏楽のバンドで指揮をして、1時間の合奏が終わると体はへとへとになっているものの、そのへとへとは充実感を帯びたへとへとであって、精神的には何かが満たされた状態になっている。どんなに不機嫌な状態で合奏を始めても、みっちり合奏をやればその不機嫌さはどこかに消えてしまう。音楽は体力を消費して心力を快復させる。でも、書くことは体力を消費して、心力を消費する。るーずるーずだ。

 書くことは、基本的に知らなかった自分に出会う作業だ。もう少し具体的に言うと、知っている自分から出発して、知らなかった自分に会いに行く作用。私が獲得している(してしまった)既知の事実や既存の言語がなければ物を書くことはできないし、そもそも「書く私」という既存の身体的主体がなければ「書く」という行為を遂行することはできない。小説を書き始めるときも、大体の登場人物や大体のあらすじは決めてから書き始めるし(そうじゃないこともある)、とにかく書き始めは確実に「既存の何か」を出発する。

 でも、書いている間にどんどん自分が「知っている自分」から遠ざかっていくことがわかってくる。大体のあらすじは決めてから書き始めるけど、本当に細かい表現だったり、登場人物たちの対話の中身を決めて書き始めるわけではない。書いているうちに、自分が今まで一度も考えたことのないセリフや表現が引きずり出されるのだ。原理はまったくわからない。なぜこんなことが可能なのだろう。

 たとえば、この一節。

生という漢字は一〇〇種類以上の読み方を持っている。それだけ人間が生にしがみついているということだ。生に執着するから、人間はどんな言葉にも生という漢字を無理やりに当てはめる。死なんて言葉はしと読むしかないじゃないか。

小田垣有輝「ぬらぬらして夏」(『地の文のような生活と』vol.1より)

  「生」という漢字が100種類ほどの読み方を持つ、ということは既存の知識として持っていた。しかし、その後の「生に執着するから、人間はどんな言葉にも生という漢字を当てはめる」も、「死なんて言葉はしと読むしかないじゃないか」という言葉は、それまでに一切考えたことのないことだった。本当にそうだ、と思ってしまった。先日、本屋さんに本を卸した帰りに、バスの中で自分の小説のこの一節を読んで、はっとさせられた。もちろん、この小説を書き始める前にこの表現を書こうなんていう予定も思惑もなかったし、この文章を書いている、本当にこの瞬間に思いついて、いや思いついてすらいない、思いつく間もなくこう書いていた。書いてあった。書いてあったとしか言いようがない。この一節は一体誰が書いたのか。なぜ私の中にそれまでなかった言葉が紙の上に突如として現れるのか。意味がわからない。

 この知らなかった自分との出会いはよかったことにもなるが、最初述べたように、つらさに繋がることだってある。

永久機関なんですよ、蔑視と差別って。天然の資源は確実に有限だけど、蔑視は無限です。人が恨めば恨むほど、利潤を生みだす。こんなに素敵なことってないと思いませんか。だから、謝罪のユートピアの先には、無限に利潤を生みだす機関が完成するのです。

小田垣有輝「謝罪の楽園」(『地の文のような生活と』vol.1より)

 これは主人公を追い詰める女性社員のセリフなのだけど、本当に書いていて嫌だった。こういうことを女性の登場人物に言わせている自分も嫌だし、自分はやっぱりこういうことを考えていたんだ、とシンプルに気づいてしまって本当に嫌だ。この小説には嫌な人が何人か出てくるのだけど、そのすべてに私が投影されている。このセリフのあとに、視点人物が「ご自分が、何を言っているのか、わかっているのですか」というセリフを言うのだけど、本当にそうだよ。何言ってるんだ。こうやって、露悪的な差別を平気で書けてしまう自分に出会って、つらい。

 私は差別から遠ざかろうとしている。差別をなくしたいと思うし、差別を抑制する仕組みを作ることにも参加していきたい。でも、遠ざかろうとすればするほど、差別と癒着するようにも思える。世にある差別を学んでいくたびに、差別の手法をどんどん取り入れているような境遇に陥る。そういう意味では、書くことは自己点検にもつながる。自分は今どこにいて、どちらの方向に顔を向けているのか。書いて初めてわかる、自分の顔の向き。書かなければ、それはわからない。

 これからも、私は知らなかった自分と出会わなければならない。自分がどういう人間なのか知らなければならない。書くことを通して、本を作ることを通して、自分で自分を見つめていきたい。

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