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語る悪、語られる悪。(田山花袋『重右衛門の最後』を読む)

 「悪」というものはどうやって形作られるのだろう。
 たとえば『重右衛門の最後』の重右衛門であれば、語り手である「なにがしという男」の「話」によって重右衛門は村にはびこる「悪」として現前化する。主に語り手が友人を訪ねて長野の山奥の村を訪れたときの体験と、友人である根本から聞いた重右衛門の過去によって構成されている。その上で、なぜ重右衛門は村の家に放火を続けるのかということを考察している。

 ただ、語り手から見る重右衛門は純然たる「悪」ではない。
 重右衛門はうまれつき睾丸に腸が下がっていて大きく腫れている。その先天的な不具によって、遊郭の遊女などにも拒否される。そして「その体の先天的不備がその根本の悪の幾分を形造ったと共に、その性質もまたその罪悪の上に大なる影響を与えたに相違ない」と結論づける。
 花袋が強く影響を受けたゾライズムは遺伝と環境を人間形成の重要な要素として見なす。この語り手もそれに漏れず、この重右衛門の先天的な「欠陥」に「悪」の根元を見た。

 ただ、これは重右衛門の「外」から見た結論である。
 たとえば、町田康の『告白』を挙げよう。『告白』は明治中期に実際に起きた「河内十人斬り」を取材して書かれている。城戸熊太郎はいかにして惨殺事件を起こすに至ったのかを、熊太郎の内省に寄り添う形で書かれている。三人称視点の語り手が据えられてはいるが、熊太郎の鬱屈した内面が詳細に描かれている。重右衛門とは違い、「内」から語られた「悪」である。

 「外」から語られる「悪」としては、古典落語の「らくだ」があげられるだろう。
 稀代の悪人である「らくだ」の家を兄貴分である熊五郎が訪ねたところ、熊五郎はフグにあたって死んでいる「らくだ」を発見する。熊五郎は葬式をあげて「らくだ」を弔おうとするも手持ちがないため、近くを通りすがった屑屋を脅し、大家などに金や酒を奪い取る手伝いをさせる…という話である。
 もちろん、「らくだ」は話の最初から死んでいる。もう「らくだ」は何かを考えたり、思ったりすることはない。「らくだ」の発話はその空間には存在しない。「らくだ」という人物像は、屑屋が「らくだ」からどんな仕打ちを受けたか、ということを熊五郎に話すことで形成されていく。「らくだ」という「悪」はやはり語られることで形づくられる。

 たとえば『少年の日の思い出』のエーミール。「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」という一言を発して語り手を突き放す。しかし、そのセリフは、語り手である「僕」による再現に他ならない。『少年の日の思い出』を読む読者、そして物語内の「私」は少年エーミールの言葉をそのまま聞くのではなく、「僕」の声を介して(まるでシャーマンのように)その存在を知るのである。
 「僕」からみて「悪」のように認識されるエーミールは、「僕」に語られることで形成される。

 これまで挙げたのは「語られる」ことで形成される「悪」だ。
 逆に、「語ること」で形成される「悪」も存在する。

 代表例は『こころ』の先生である。
 彼は、自分のことを「狼」、友人であるKを「羊」という言葉で形容することで、自らの狡猾さ、罪深さを強調している。先生がなぜ罪深いかといえば、先生が自分を「罪深い者」として語るからだ。
 さらには森鷗外『舞姫』の太田豊太郎も、妊娠したエリスを、「高い身分になっても自分を捨てないでほしい」と懇願した貧しいエリスを捨てて日本に帰るという自分を語っている。自らを「許すべからぬ罪人なり」という言葉で表現している。豊太郎も自らを「罪人」と語ることで、罪人たりえている。

 このように、語られることで作られる「悪」と、語ることで作られる「悪」が存在する。
 しかし、これらの「悪」は語る視点が変われば様相が一変しうる「悪」なのである。

 重右衛門であれば、重右衛門が妻のかわりとしてめとった娘の視点から同じ物語を語ったらどうだろうか。村人から無法者として虐げられる重右衛門に強く共感し、共謀して次々と村の家に火をつけていく。重右衛門が殺害されたときには、村人たちに対する強い憎悪の念を燃やし、ついには村中の家に一斉に火をつけ、最後は自害か、他殺かわからないものの、火に包まれて死んでいく。
 彼女の視点から立った重右衛門は、「なにがしという男」から見た姿とはまったく違ったものになるはずだ。

「らくだ」であれば、兄貴分である熊五郎からみたらまた違って見える。エーミールも、エーミールの視点からこの事件を語ればまったく違った姿に見える。

『こころ』はどうだろう。
 確かに先生はKに真実を告げないままお嬢さんとの結婚を強行したのかもしれない。しかし、それも先生の語りだけを読んだ姿にすぎない。Kは実際に先生のことは眼中になかったのかもしれない。奥さんもお嬢さんも、元々先生を新しい家長として迎えるために下宿にとり、下宿であるにも関わらずその家で一番広い、床の間つきの部屋に住まわせていたとすればどうだろう。
「重右衛門の最後」で長野から逃げてきた根本たちは小さな湯屋の二階に下宿していた。それに比べれば先生の待遇は破格なものだろう。
 そこまでされて、先生は果たして何も気がつかなかったのだろうか。そう考えればKに奪われる心配などなかったはずだ。先生とお嬢さんが結婚して家を受け継ぐことは非常に自然な流れで、Kはただのノイズにすぎない。先生は罪のないところに罪を創造し、誇張していただけなのではないか。
 豊太郎は確かに罪深いかもしれないが、それはエリスが純然たる「善」と語られているからかもしれない。豊太郎はエリスを「善」として語ることで、自らを「悪」として規定した。エリスは果たして純然たる「善」なのか? 豊太郎というエリートを利用しようとしたという読みはできないのか?

 このように、語られること、語ることで作られた「悪」は、視点を変えればその境界線はあっという間に揺らぐ。
 語るものにとっては「悪」として規定することは重要なことだったのだろう。

 「重右衛門」は、ゾライズムに傾倒する「なにがしという男」が、自らが抱いている主義主張を証明するために重右衛門の不具と罪を語り、関連づけようとした。
 「らくだ」であれば、屑屋がいかに「らくだ」からひどい仕打ちを受けたかを話して、仕事に戻るため。
 『こころ』の先生は、青年に「自分のようにならないように」と警告するため(これも先生の語りを鵜呑みにすれば、の話だけど)

 語る者には、語る事情がある。語るための欲望がある。
 テクストに通底しているその「欲望」に耳を傾けることが「精読」なのではないか。語りによって創造される「善」と「悪」の境界線を揺るがすことが「読む」ということなのではないか。

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