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語りが孕む矛盾に向き合うこと ー『山月記』の授業

 なんとなく始まりました、「定番教材との思い出」シリーズです。
 これまで高校の現代文でいくつもの定番教材と対話を続けてきました(教員生活5年半の中で『こころ』の授業4回やってるってすごくない??)。そんな中で色々考えたことを振り返りながら日記のように残してみたいと思います。授業のヒントになれば幸いです…。
 というわけで、初回は『山月記』です(もう時期はすぎたか?)。

扱いにくい語り手、李徴

 とにかく、李徴って非常に取り扱いにくい語り手だと思うです。
 やっぱり授業を展開しようとすると、後半に焦点をあてがちになってしまう。「どうして虎になった?」「『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』ってなに?」「月の光が象徴するものは?」など、後半に山場を持ってきて、「虎」というモチーフ、「変身」というモチーフと李徴の語りの整合性を取ろうとする。
 確かに、それも一つの授業のかたちだとも思うけど、それだと李徴の語りを鵜呑みにするような態度であり、というより、果たして李徴の語りの全てと対峙できているのだろうか、というもやもやが残ります。

 李徴はもう全てを語る前にこう語るわけです。

全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
ー青空文庫より

 李徴はすでに真理に到達しているわけです。虎という姿に変わってしまったことになんの文脈も、意味もないということに気づいている。この気づきはあまりにも最初に登場するため、授業で『山月記』を収斂させようとしたときには見過ごされてしまうし、そもそもこの語りを引き受けてしまったあとに「なんで虎になったの?」って考えること自体が徒労であると思わざるを得ない。

 また、李徴はこうも言っています。

とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
ー引用同上

 未練たらたらなわけですよ。徹底的な自己内省と、飽くなき自己顕示欲が並存している。しかし、語る順序(自己顕示欲が前置され、内省が後置される)によって、「自己顕示欲は李徴の中で相対化されて、分析対象となっている」というように読めてしまう(聴こえてしまう)。
 他にも兎を食べたときの意識の移り変わりと袁傪に飛びかかったときの場面や最後月に向かって吠えた場面を比較すると明らかに矛盾を抱えています。虎になった李徴は人間のときの意識はなくなるのに、どうやって「自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう」という人の李徴が言った言葉を虎の李徴が実現するのでしょう。明らかに説明が矛盾しています。
 つまり、李徴の語りを全て引き受けようとすると、ニヒリズムや論理の並存に気づく。語りは矛盾だらけで、首尾一貫した主張なんて存在しないことがわかります。

矛盾こそ、『山月記』

 しかし、『山月記』の語りの本質はまさにそこなのではないでしょうか。語るがゆえの矛盾、語るがゆえの欺瞞、語ろうとすればするほど、語りから自己の存在が語りから逸脱していく。そんな語りからの「逃避」が読み取れる。これは前に書いた『故郷』の語り手の語りと似ていますね。

 それに伴って、袁傪や語り手は李徴の語りに対する批判を李徴に知られない場所で展開します。

成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。
ー引用同上
酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。
ー引用同上(太字は引用者による)

 李徴の語りの中にある論理の綻びとこれらの批判は呼応し、この物語に多くの解釈を許しています。

 同じ定番教材の『少年の日の思い出』は李徴の語りとは違い、「罪を犯した『僕』」と「正義の名の下に糾弾するエーミール」という像を構築して、そのイメージに語りを収斂させていきます。そして、聞き手や超越論的な語り手による批判をもシャットダウンし、語り手としての特権を謳歌しています。李徴の語りの中では李徴という自己は千変万化に移り変わっていきます。語り手や袁傪は同調したり批判して語り手としての特権生を相対化しながら、李徴の変化を支えています。

 授業の中で「なぜ虎になったのか」という問いにテクストを収斂してしまうのは「語りの矛盾」というこのテクストが持つ独自性を無化する営みにもなり得る。これまでの定番教材としての『山月記』の姿は、語りの矛盾を読み手の解釈によって整合することで継承されていきましたが、多くの矛盾を孕んでいるにも関わらず、聞き手になんらかの力をもって(袁傪に不思議であったと思わせないくらいの切実さをもって)読者に何かを訴えかけているという姿として継承されていってもいいのではないでしょうか
 考えてみれば、これほどの多くの矛盾を抱えながらも一つの構築物として形を成すことができるメディアって小説だけなんじゃないでしょうか。報道媒体に矛盾は許されないし、実際の建築物の中に矛盾が生じてしまえば崩壊してしまう(もちろん矛盾を抱える建築物という表現はあるだろうけど)。矛盾しているのに、矛盾しているから成立しているってすごくないですか?? すごいぞ『山月記』!

 今日はここまでです。次はなんのお話にしよう。リクエストをお待ちしています。

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