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【新刊】『地の文のような生活と』vol.4が文学フリマ東京38で刊行されます!

 こんにちは、文芸サークル「コトバノアリカ」主宰の小田垣です。2日後に東京流通センターで開催される文学フリマ東京38に参加いたします。ブースはIの39~40です。贅沢の2ブース。
 前回の37は、出店はしたものの、仕事の都合で参加できなかったので、2回ぶりの参加となります。楽しみ。

 前回までは、完全に店番も一人でやってたので、文フリの他のブースを一切まわったことがなかったのですが、今回は友人が少し店番を手伝えると言ってくれたので、そのご厚意に甘えて文フリのブースをまわれると思います。と、いっても知り合いのブースにご挨拶に伺って、それで終わりと言う感じもする。

 今回から一般来場者も入場料を取るとのこと。前々回も人で溢れかえっちゃって歩きづらそうだったから、少しそれも緩和されるといいな(売り上げが減るというリスクもあるけど)

 今回の文フリ東京では個人文芸誌『地の文のような生活と』の新刊となるvol.4を刊行いたします。「vol.5まで続けられたらすごいな」と思って始めた本づくりも、気が付いてみればvol.4。次はついにvol.5です。しかも次回から東京文フリも流通センターからビックサイトへ移転。いろいろなことが動きますね。

 今回のvol.4は僕としてはかなり思い入れのある本となったので、簡単にどんな経緯で書いてきたかということを書き記しつつ、販促用記事としたいと思います。70部売り切りたいな~~。

架空の歌集、架空のエッセイ

 vol.4のテーマは「〈いたみ〉を書く」。痛み、悼み、伊丹…いろいろなモチーフが掛詞的に登場いたします。

 今回のvol.4では書き下ろし中編小説(17,000字くらいだからギリギリ短編だけど)として「三つの虚構的断章」が掲載されています。
 vol.1が「謝罪の楽園」、vol.2が「虐待でもくらしぃ」、vol.3が「キマイラの輪郭」。なんだかんだで2年で4本の中編小説を書き落とすことができたのはよかったです。達成感がある。
 吹奏楽ファンはお気づきかもしれませんが、小説のタイトルはV.ネリベル作曲「二つの交響的断章」へのオマージュです。その曲も僕としては思い出深い作品なので、あやかってみました。

 ストーリーは、一種の「フェイクドキュメンタリー」です。概要は以下の通り。

 僕(小田垣)の友人、神楽和泉が2023年4月の同人誌イベントで『悼む歌、痛む歌』という歌集を刊行します。その歌集は神楽氏の友人の死を悼むために制作された歌集で、神楽氏と伊丹というペンネームの女性が交換し合った和歌が掲載されているものです。
 僕(小田垣)は、その歌集が作られた経緯をエッセイにしてほしい、と神楽氏に依頼をします。そして神楽氏が執筆したエッセイを今回の『地の文のような生活と』vol.4に掲載をします。

「三つの虚構的断章」

 僕も今回の中編の設定を他人に説明しようとして毎回毎回混乱するのですが、上記はすべて「設定」であり、すべて「フィクション」です。誰も死んでいないし、神楽和泉も伊丹もすべて架空の人物です。
 
でも、ただのフィクションではありません。登場人物はすべてフィクションですが、歌集は実際に存在しています。

架空歌集『悼む歌、痛む歌』
歌集『悼む歌、痛む歌』

 全40首が掲載され、神楽氏と伊丹氏による緒言・末尾の言葉も掲載されています。この和歌もすべて僕(小田垣)が詠み、校正して実際に製本しました。
 このアイディアはかなり昔から持ってました。vol.1を刊行した2022年よりも前から。しかし、和歌を実際に詠まなければならないということがハードルになり、なかなか実現できませんでした。
 それが、数年の時を経て、vol.4の制作をきっかけに、なんとか完成にこぎつけることができました。めちゃくちゃ大変でした。

歌集制作ノート①
歌集制作ノート②

 このように制作ノート(ネタ帳)にも苦労の痕跡が残っています。神楽と伊丹はまったくスタンスが違う読み手なので、その違いを考えながら順番を構成していくのとか、あまりにもコミュニケーションが円滑に行われてしまうと歌集としてつまらなくなってしまうということもあり…いろんなバランスをとるのが大変でした。よく作ったなぁ。いまだに信じられん。やってやれないことはない。お気に入りの和歌は以下の三首です。

袖ぬらし探る諸手で手向くるは彼が逝きける如月の花
たそかれに声なく悼むほととぎす苦き血潮で口は満ちけり
野辺に撒く種が芽吹けばさねかづら歌ひつつ繰る月を曳き曳きて

風塵の会『悼む歌、痛む歌』

 やっぱり歌集が実際に手元にあると、虚構であるはずのエッセイがだんだんと現実のものとして機能し始めます。本当に神楽和泉はどこかにいるのではないか。彼の友人は本当に死んでしまったのではないか。自分ですべて書いておきながら、どうしてもそう思ってしまう。
 これは「書かれたもの」が持つ特徴であるとも思います。書かれたものは、現実の書き手からは常に解放されています。僕が書いた文章だとしても、この世に出現したと同時に僕のものではなくなります。それは誰にでも読まれ得るし、どうとでも解釈されうる。それはテクストが特定の書き手とは常に結ばれないということであり、同時に「書いた人間とは別の人間とテクストが結びつく」ということも起こりうるということです。だから、このエッセイはすべて小田垣が書いたものですが、小田垣ではない全く別の人間が書いたものとして流布し得るのです。なんの前情報もなくこのvol.4と歌集を表紙買いした方には、神楽氏も伊丹氏も「本当に存在する人物」として認識されるはずです。そうなったら、神楽氏や伊丹氏は本当に架空の存在なのでしょうか?
 だからこそ、すべてが嘘なのに真実味が生まれてしまう。嘘だからこそ、真実になってしまう。これは「書かれたもの」のおもしろさだと思います。そういった「現実と虚構の狭間」を融解することができた、というよりは現実と虚構の狭間の曖昧さを可視化することができたのが、今回の「三つの虚構的断章」なのかな、と思います。

 また、神楽氏のエッセイの中では歌集を同人誌イベントで販売した際の描写も含まれています。ここには、本を媒介にしていろんな人と出会うことができた、という僕自身の経験も反映されています。
 文章を書くことは僕にとっては苦痛ですが、やはり文章を書く、本を作ることで何かに癒され、何か新しいものに出会う、ということは起こりうるのだなぁと改めて思いました。

読んでほしい!

 中編「三つの虚構的断章」の他にも、
・批評「ショートボブ・イン・ザ・エイク」
・エッセイ「痛いの悼いのとんでいけ」
・掌編「目やにの小屋」
・編集後記「我悼む故に、汝あり」

上記4本が掲載されています。元々この文芸誌のコンセプトとして「小説」「批評」「エッセイ」「詩歌」の4ジャンルを全部ひとりでやってのける、というものが設定してありました。今回歌集を作ったことによって、初めてそのコンセプトが体現できたと思っています。そういう意味でも記念すべき号です。

 ということでぐだぐだと書かせていただきましたが、要は何が言いたいのかというと「読んでくれ~~~~~~~」ということです。企画としてもおもしろいし、コンテンツとしてもおもしろいと思います。お値段はvol.4と歌集セットで1,000円! もちろん、既刊のvol.1「差別を書く」、vol.2「父が/を書く」、vol.3「恋を書く/恋で読む」も持っていきます。
 文学フリマにお越しの方は、ぜひIの39~40のブースに遊びにきて、手に取ってみてください。

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