カール・マルクス『賃労働と資本』(岩波文庫)を読む。

『賃労働と資本』は1948年にマルクスが著し、1849年に『新ライン新聞』に掲載されたものである。基本的に労賃はどのように決定され、資本家はいかにして利潤を得るかということが、具体例を列挙しながらかなり平易な文体で説明されている。
 1933年にマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が付した序言にも、この書物の特徴がまとめられている。

『賃労働と資本』は、一八六五年のマルクスの有名な講演『賃銀・価格および利潤』といっしょに、彼の主著たる『資本論』の研究のための最善の準備書である。しかも『賃労働と資本』は『資本論』と同じく、資本主義の本質およびその崩壊の理解への手引きをなすばかりではなく、過渡期および社会主義の建設にかんする経済的諸問題の理解への手引きをもなしている。(16頁)

 怠惰な私には、『資本論』を生きている間に読み通せる自信は一切無い。しかし、上記の引用のように、その要旨が簡潔に、わかりやすく説明されていて、私のような読書嫌いな人間でもマルクスの思想の一端に触れることができる絶好の著書である。

 さらに、先の引用でいえば、「過渡期および社会主義の建設にかんする経済的諸問題の理解への手引き」としての役割が非常に大きい。
 日本文学におけるマルクス主義・プロレタリアート文学を紐解くと、そこには理論よりも、階級間、つまりはブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争が色濃く出ている。小林多喜二の『蟹工船』もその最たるものだろう。彼らプロレタリアート文学者たちはマルクスの理論について深く研究し、その理論にも共感しているところもあるとは思うが、その理論を虚構におろすにあたって読者の共感を得るためには理論よりも対立・闘争を描かなければならなかったのだろう。

 また、サービス業従事者の増加、高度消費情報社会への移行によって「モノそのもの」から「価値の差異」を消費するようになった現代において、産業資本主義に生きたマルクスの思想がどこまで通底しているかということも疑問を抱かざるを得ない。
「モノを作る労働者」というのは日本の中ではもはやマイノリティである。アーレントが言うところの「労働(labor)」ではなく「活動(action)」に従事する人が増加している(活動は活動で新たな搾取の問題が出ているが)。その中で、「労働者が創造的に作り出した余剰価値を資本家が搾取する」という画一的な搾取構造だけで現代資本主義の特徴は説明しきれない。

 しかし、この『賃労働と資本』においては、もちろん階級闘争についての文言も盛り込まれてはいるが、冷静かつ論理的に資本主義が抱える逆説・矛盾が説明されている。そこがこの本の主眼であるだろう。

 生産手段はたえず変革され、革命されるのであり、分業はより進んだ分業を、機械の使用は機械のより進んだ使用を、大規模な作業はより大規模な作業を、必然的に生ぜしめるのである。(77頁)
 生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用とがますます拡大する。分業と機械の使用とが拡大すればするほど、労働者の間の競争がますます拡大し、彼らの賃銀がますます収縮する。(84頁)

 マルクスはすでに19世紀中頃の時点で、資本主義制度、新自由主義、加速主義などが抱える本質的な矛盾・弱点を看破していた。この点に関しては慧眼であると言うしかない。そして、これらの弱点はマルクスの死後100年を過ぎても解消されないどころか、より深刻な事態へと突入している。
 今後、サービス業の中にも機械は流入し、労働者には「対話を重視しながら主体的にものごとを判断し、表現できる人材」という「新しい」(?)能力が強く求められるようになる。それはビジネス界でも、教育界でも同じだ。

 マルクス主義者の言うように、暴力をもってして権力を打ち破り、労働者による国家を作ったとしても、資本主義というシステム自体を根絶やしにすることはできない。昭和をいきた共産主義者も、結局は印刷資本主義、グーテンベルクの小宇宙の中に投げ込まれた資本主義の小さな享受者だったはずだ。しかも、そのような社会実験はソビエト連邦の崩壊によって失敗している。

 私たちは膨張・成長・加速から逸脱するわけにはいかない。資本主義システムから完全に解放されることはむずかしい。
 しかしせめて、私たちが常に服薬している資本主義という薬には強烈な副作用があるということを自覚しなければならない。その副作用と成長は表裏一体なのだ。一人一人が今後の経済の議論を展開していくためにも、『賃労働と資本』で描写されているような「資本主義の副作用」を各々が理解しなければならない。

 薬は、使用法・容量を守って正しくお使いください!!

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