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「弱さ」をシェアするチームになる


“何かに恐怖しない人間はこの世にはいない。つまり、誰しもが暴君ディオニスになる素質を持っている。大切なのは不安になったときにどうするかだ。もちろん、生徒ではなく、周りの教員・主任と共有することも大切な手段だ。学校の管理者も、教員のもつ不安を言語化できる仕組みを構想しなければならない。”

小田垣「「教員の不安」を起点にした対話を」

「弱さ」を受け入れるための「強さ」 

生徒と信頼関係を築くためには、教員が自身の不安と向き合い、時にはそれを生徒に吐露することも必要である。これはこのマガジンの最初の記事でも書いている。教員がいつでも正しくいようとするがゆえに、自己の不安を抑圧し、生徒を支配していく。
 しかし、自分の弱さや不安と常に対峙することに必要なエネルギー量は膨大である。自分の行っていること・言っていることは間違っているのではないか、生徒の言っていることの方が正しいのではないか、と自己の言葉を常に相対化しながら、答えを出すことを遅延し続けることは、逆に「拙速な答えを引き受けない強さ」を要する。個人が「弱さ」を引き受けるためには、逆説的に「強さ」を必要とするのだ。「強さ」から逸脱するための「弱さ」であるにも関わらず、その「弱さ」を「強さ」と癒着している。

 先日の記事でも、生徒が教員の言うことを聞かなかったときに安心できることが一歩、と述べたが、この安堵を引き受けることにもやはり「強さ」を必要とする。自分の言うことを他者が聞いてくれないことのストレスはやはり大きい。そのストレスを回避せず、むしろストレスを引き受けることを安堵の条件としなければならない。
 教員が生徒の創造性を担保するためには、このような自家撞着をあえて引き受けなければならないことがある。やはり、ここでも自分が矛盾しているということを引き受けるだけの「強さ」が必要になってくる。

 私(小田垣)は「強さ」を引き受けることにほとほとうんざりしている。いち早く、強い自分を捨て去って、弱い自分でいたい。でも、弱い自分でいるためには、弱い自分を保持しながらも他者を律しようとするアンビバレンツをやはり引き受けなければならない。

 このように、生徒との信頼関係を築いたり、よりクリエイティブな発想を生徒から引き出すためには、教員が情報を伝えたり技術を伝達しながらも、その伝達から生徒が逸脱することを認め、結論を遅延し続けるだけの「強さ」が必要になる。
 
これってとってもとっても大変な営み。ではどうすればよいか。

チームで「弱さ」をシェアする

 ここで冒頭の記事の引用に戻る。弱さを対峙するために必要不可欠なのは、教員間のチームである。そして、教員間のチームに求められるのは、「弱さ」のシェアである。
 
教員が個人で弱さを引き受けることはそれ以上の強さを必要としたり、膨大なエネルギーを必要とする。ならば、弱さを他の教員と積極的にシェアをするべきである。そうすれば、個として持たなければならない「強さ」も同じようにシェアされていく。そして、矛盾を抱えながら生徒と向き合うことのストレスもシェアされていく。
 シェアをするということは、他者とシェアをする工程の中で必然的に自らの弱さが自らの言葉で言語化される。言語化されるということは、自分の弱さが自分から相対化されていく。
 授業のメソッドのシェア、受験に関する情報のシェア、生徒の創作物の良い点のシェア、という「アクセルとしてのシェア」も極めて大切であるが、弱さのシェアという「ブレーキとしてのシェア」も両輪としてとても大切である。答えを早急に決めつけないこと、議論を遅延させること、決断を先延ばしにすること、そうすることで根気強く議論を深めていくこと。その難しい作業をそれぞれの教員が果たすためには、その作業の中で生じる不安、苦悩を言語化し、シェアし、再検討し、また議論の燃料にしていくことが不可欠だ。

 教員が悩めば悩むほど、生徒の議論・創作も深まっていく。しかし、教員一人が悩みを持つのはつらい。悩みを「持ち続ける」ためにも、悩みを、弱さをシェアすることが肝要なのである。


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