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読書日記 | 12/11〜12/17

12/11(月)
朝、支度をしながら「本と学びと私の時間」というラジオを聴き、会社に向かうまでの電車では「暇と退屈の倫理学」 を再読した。

 退屈と気晴らしについて考察するパスカルの出発点にあるのは次の考えだ。
  ”人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。”
 パスカルはこう考えているのだ。生きるために十分な食い扶持をもっている人なら、それで満足していればいい。でもおろかなる人間は、それに満足して部屋でゆっくりしていることができない。だからわざわざ社交に出かけてストレスをため、賭け事にカネを失う。
 それだけならまだましだが、人間の不幸はそれどころではない。十分な財産をもっている人は、わざわざ高い金を払って軍職を買い、海や要塞の包囲線に出かけていって身を危険にさらす(パスカルの時代には、軍のポストや裁判官のポストなどが売り買いされていた)。もちろん命を落とすことだってある。なぜわざわざそんなことをするのかと言えば、部屋でじっとしていられないからである。
暇と退屈の倫理学』(P36、國分功一郎著、太田出版)

今日は仕事をはじめてから長い時間、仕事にうまく集中できなかった。ずっとそわそわして、ただひたすらにその空間に居ることがつらいように思えた。何でここにいるのだろうか、とかそういうことばかり考えていた。煙とか、雲とか、空気の一部みたいになって、このままだれにも気づかれずにすーっと気体になれたらいいのにと思った。
本に助けを求めるみたいに、休憩で2冊の本を買った。
谷川俊太郎の「すてきなひとりぼっち」と穂村弘さんと東直子さん共著の「回転ドアは順番に」を買った。岸政彦さんの「大阪の生活史 ダイジェスト版」も店内に並んでいたのでもらってきた。読んで心を落ち着けたかった。

 こういう話はどこにでもあるものだろう。でもやっぱり、大阪だなと思う。
 この街に三五年以上住んで、やっぱりここがいちばん良い街だ 、と思っている。
 もちろん、どの街も、それぞれの世界でいちばん良い街だ。
 それはちょうど、飼ってる猫が世界でいちばんかわいい、ということに似ている。ほかの子を飼っていたら、もちろんその子が世界でいちばんかわいいのだ。
 だから、大阪が世界でいちばん良い街だ、ということと、それぞれどの街も世界でいちばん良い街だ、ということは、矛盾しない。
 だが同時に、大阪がどうしても合わず、嫌になって出ていくひとも多い。そういうひとにとって大阪は、世界でいちばん合わない、 嫌な街ということになるだろう。
 それもまた別に矛盾しない。
 大阪は、世界でいちばん良い街で、世界でいちばん嫌な街で、 要するにそれは、世界でいちばんふつうの街で、世界でいちばんどこにでもある街だ。  すべての街が、世界でいちばんどこにでもある街である。
 そこで生まれ、暮らして、死んでゆく、世界でいちばんありふれた私たち。
大阪の生活史 ダイジェスト版』(岸政彦「あとがき——世界でいちばん、普通の街」より抜粋)

帰りの電車でも「暇と退屈の倫理学」を読んだ。何だか本を読んでも、目はスムーズに進むのに、うまく内容が入ってこない。どうしてだろう。どうして。

眠る支度をして、布団に入った。ふと考える。「明けない夜はない」という言葉がある。この言葉を使うとき、夜は重苦しく、どこか孤独なイメージのように思う。ほかにも、夜と朝、暗闇と光の対比なども同様に「夜」はどこかネガティブな印象で語られるときがある。
どうしてだろう。朝が嫌なときもある。光に触れたくないときもある。手をひっぱられたくないときもある。このまま夜に身を潜めたいと思うときがある。
僕は今、極夜を待っている。眠ろう。今は何だかそういう気分だ。


12/12(火)
朝起きるといつもよりも身体が重く感じられた。時刻は6時42分である。見た夢の内容がなんだか、嫌な気分になる内容だったからだろうか。
ここ最近、生きることがどうしようもならつらく、重く感じられるときがある。夜に焚く、お香の煙を見ながら「あの煙みたいにすーっと消えてしまえればいいのに」と思う。でもそれは人間の目には見えなくなるだけで物質的には完全に消えることはないんだろうなとも思う。そうやって考えをめぐらせるうちに、今日、会社に行ったら壊れてしまうような気がして。
会社を休んだ。

1日中、ぼんやりとしながら過ごした。昼間は映画をみたり、ドラマをみたりした。映画は「ミッドサマー」を観た。「カップルでみたら別れる」と、一時期にネットで言われていたけど、その理由があまりわからなかった。
なんだかその意見は、 映画を侮辱されている気持ちになった。(僕は作者じゃないけど)
夜眠る前、友人に「傷を愛せるか」を少し朗読した。


12/13(水)
今日も身体が重い。9時すぎごろ、会社に今日も休むことを連絡して、また眠りについた。次に起きたときは、11時すぎくらいに起きた。天井を眺めたり、ぼーっとしたりしてら、13時になっていた。
家のことを少ししようという気分になって、片付けをして、 落ち着いてから「ヴィーガンズ・ハム」という映画と観た。こういう現代っぽさを皮肉っている映画は面白い。ただそれは客観的な意味での面白いという意味だけど。「ドント・ルック・アップ」という映画を思い出す。

15時くらいに近所のマックに歩いて向かい、ビックマックのセットと三角チョコパイをテイクアウトして、家で食べた。ポテトは少し冷めていた。
少し食べすぎたので、ベッドで横になりながら、「silent」というドラマを観た。21時すぎくらいまで観続けて、最終回まで観終わった。
面白かったし、かなり泣いたけど、なんだろう、どこか違和感がある。それは多分美しすぎたのだと思う。登場人物も、物語も。
もちろんドラマなのでそういうものだろうと思うけど。現実はこんなに美しくないように思う。身体的マイノリティの方とのセックスとかそういう営みはどうなるのだろうとか、ふつうに浮気とかも起きるだろうなとか、そういうことばかり考えてしまう。僕の心は汚れているのだろうか。美しい物語に憧れて、それを現実に投影して、理想主義的になる方がなんだかこわい。それとも、ドラマにまでそういう綺麗すぎない面を求めているという意味では、僕が理想主義なのだろうか。もしかしたらそうかもしれない。
人に意見を押しつけたいわけではない。ただ違和感を感じる。でもこうやって主張することで、やはり誰かに意見を押しつけていることになるのだろうか。

夜はゆっくりと湯船に浸かった。お風呂で「悲しみの秘儀」を読んだ。

暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから 空の彼方から
遠い過去から ほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達
暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声
声も出さずに涙する者達の声
ブッシュ孝子著、『白い木馬』より

お香と焚いて、深夜1時くらいまで文章を書いてから布団に入り、眠った。


12/14(木)
ここ2日、仕事を休んでいたこともあって、まだ身体が少し重いような気がする。でも今日は会社に行かなくては。
サンドウィッチマン ザ・ラジオショー・サタデー」をききながら下度をした。なんだか少し元気がもらえたような気もする。
家を出る前に読みたい本を探して本棚と睨めっこ。結局「ハンチバック」を持っていくことにした。行きの電車で「ハンチバック」を読んだ。

仕事は忙しく、20時くらいまでほぼ30分刻みで仕事とした。
今日は今後のキャリアについて、相談する時間があった。今はエンジニアだけど、その中でどういうポジションで働くか、 それともエンジニアというポジションから別のポジションに変えるか、とかそういう話をいくらかした
結局、今後はエンジニアではなく、 カタリストというポジションとして、進んでいくということになった。 不安も多いけど、楽しみな気持ちもあった。

帰りは、仕事に関連するAWSの負荷試験についての記事を眺めたりした。
読み終わったあとはYouTubeをみながら帰った。家では温船に浸かりながら「問いのデザイン」を読んだ。

距離感が曖昧な人と、何かについて考えるのは難しいように思う。でも心のどこかで、話し合えるのではないかという願望も持っているように思う。
お風呂を上がってからは、お香を焚きながら、 日記や文章を書いた。今日の夜はなんだかゆっくりとした時間を味わえた気がした。書いた字もなんだか綺麗に見えた。


12/15(金)
朝は、「超相対性理論」をききながら下度をして、行きの電車は「いちばんすきな花」を観ながら会社に向かった。椿さんが本当にかわいい。朝から幸せな気持ちになった。電車で観ているときニヤニヤするのを我慢するので精一杯だった。

お昼休憩で本屋に行った。年末に向けてということもあるのか、書店の雰囲気もかなり変わっていたこともあり、長い時間いた。本は3冊(道尾秀介の「きこえる」、「ぎんなみ商店街の事件簿 Sister編」、「鬱の本」)を買った。「ぎんなみ商店街の事件簿 Sister編」は友人との読書会用で買った。この本は、1つの事件を2つの視点で描かれており、「Sister編」と「Brother編」の2冊ある。僕は「Sister編」、友人は「Brother編」をそれぞれ読んでから話してみたら面白いかもね、ということになり、購入した。

19時くらいに仕事を終えた。終えてから40分くらい会社にいて、年末ということで、「おつかれさまです。」のメッセージと書いていた。
家には21時くらいについて、お風呂で「きこえる」を読んだ。本の中にQRコードがあり、音声を聴きながら読み進める。きくのは怖いけど面白いと思った。この先も読むのがたのしみ。
布団に入ってから「鬱の本」を読んで少ししてから眠った。

 曇りの日が嫌いではない。好き、というほどではないけれど、自分の心と、外の風景の天秤がちょうどつりあい、世界と自分のチューニングが合っているという感じがする。晴れは軽すぎるし、雨は重すぎる。だから曇りがちょうどいい。
 なにかの本で読んだけれど、心が鬱寄りの方が物事のバイアスがなく正常に物事を判断できるらしい。鬱であるほうがマトモだと言われているようで安心する。
 世の中には読んでいて気が滅入るような本がたくさんあるけれど、気が滅入っているときに元気で明るい本を読むとますます気分が沈んでしまう。くそー、なんなんだ、なんでおまえらはこんなにも楽しそうで明るくて未来を見ているんだ、いっそ爆破してやりたい……!完全な八つ当たりと逆恨みだけれど、このメンタルのときに何を言っても逆効果だ。こういうときにこそ憂鬱に寄り添ってくれる本が必要なのだ。
 僕にとって「そういうとき」の本といえば、シオラン最後の著作『告白と呪詛』だ。どのページを開いても憂鬱なことしか書かれていない。
鬱の本』(P28、憂鬱と幸福 海猫沢めろん著)


12/16(土)
6時くらいに起きた。何だかはげしい夢を見て、現実と夢の区別がつかずに起きた。
8時くらいに起きた。おだやかな夢だった。
11時くらいに起きた。よくねむれた。布団に入ったまま、「鬱の本」を読んだ。
13時くらいに起きた。少し動いた。チョコレートビスケットを3枚くらい食べた。
14時くらいに起きた。天井をながめてぼーっとした。
16時くらいに起きた。それから17時くらいまで友人とだらだらと電話とした。中身もないような話とした。電話を切ってからも、YouTubeをみたり、本をよんだり、18時すぎくらいまでだらだらした。

18時すぎくらいにようやく重い腰を上げて下度をはじめた。20時ごろに近所のカフェに、藤井風の「きらり」と「花」をループしながら向かった。なんだか無敵の気分。

カフェでは1時間くらい仕事をして、それからnoteを執筆したり、読書日記を書いたりしてすごして、22時半くらいに自宅に帰宅した。
お風呂に浸かりながら「悲しみの秘儀」をよんだ。

 眠れない夜がある。格別嫌なことがあったわけではないが、寝られない。それだけで充分につらいのだが、こうした日には決まって、悲しみとも苦しみとも命名し難いような気持ちだ湧き上がってくる。ゆっくりと花が開花するように、心の奥にしまっておいたはずの気持ちが広がり始める。
悲しみの秘儀』(P41〜42、若松英輔著、文春文庫)

寝る準備が整ってから、お香を焚いて、あたたかい飲み物をのみながら、友人への手紙を書いた。大体1時間くらい書いた。下書きはすませたので、明月あたりに紙に書けるといい。
今日はかなりゆっくりとした時間をすごした。おやすみ。

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