読書日記 | 12/18〜12/24
12/18(月)
夜、湯船に浸かりながら「きこえる」を読んでいた。QRコードが出てきて、音声を聞くのが怖くなって読み進めるのをやめた。
明日の朝、電車できこう。
12/19(火)
青山ブックセンターで行われた、「さみしい夜にはペンを持て」の刊行イベントに参加した。著者の古賀史健さんとライターの古賀及子さんの2人の対談だった。2人は主に「日記」についての話をしていた。
そのなかで特に覚えていることは、2人とも「感情をスローモーションにして、気づいたことを書く」ということを言っていた。とてもすてきだと思った。
気づいたら比較することや、自分を卑下した文章を書いてしまうけど、そうではなく自分の目の前の数秒を文章にすることはとてもいいと思った。どうしてそれがいいと思うか、はまだ今はわからないけど、それを少しでも咀嚼できればいいと思う。
イベント終わりに古賀史健さんの「さみしい夜にはペンを持て」と古賀及子さんの「ちょっと踊ったりすぐにかけだす」を購入した。
帰りの電車では「きこえる」を読んだ。(音声パートは少しこわいけど、順調に進んでいる)
12/20(水)
「きこえる」を読了した。僕は勘違いしていた。いくつかの短編でできている作品だけど、各短編同士が繋がっていると思っていた。正確には、1つの物語だと思って読んでいた。恥ずかしい。
12/22(金)
10:07、目が覚めた。
会社に11:00につかなければいけない。
幸い、寝癖があまりなかったので、起きて5分で家をでた。
LE SSERAFIMのPerfect Nightを聴きながら、駅まで早歩き。
向かう電車の中で、「いちばんすきな花」の最終回を観た。うん、とてもいいラスト。心の中で拍手喝采。
会社には、10:56に到着した。
会議の時間の影響で、ドラマは最後まで観れなかった。「いちばんすきな花」の最終回は15分拡大版だった。参加しなければならない会議終えてすぐにドラマの続きを観た。生方美久先生、ありがとうございます。
12/23(土)
11時くらいまで布団の中で過ごしていた。もぞもぞしながら、古質及子さんの「ちょっと踊ったりすぐにかけだす」 を読んだ。
雨にぬれたが風呂にはまだ入りたくないというので豆乳に砂糖を入れて温める。雨にぬれた子どもに何ができるか考えて思いついたのだ。そうする母親をどこかで見たんだと思う。レンジで温めた豆乳がぶわっと噴いて、慣れてない!と思った。
私はお母さんらしさを、模倣・トレースでやってるな、というのは子どもを持ってからずっと思っている。小学生の母親といえば「宿題やったの!?」と言うだろう、私も言ってみようとか、そういうかんじ。これはどこかの母の模倣だなと思ったらそのトレースでいいのか悪いのか考える。考えないで流されることもある。
『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』(P17、古賀及子著、素粒社)
12時くらいにやっとの思いで布団を出た。今日までに書きたい手紙があったので、notionの下書きを見ながら万年筆で紙に書いていく。つらつらと書いていたら、2時間くらいかかった。
少し仕事をしなければならなかったので、そのまま仕事をはじめた。昼間からお香を焚くことは、なかなかないけど、薄暗い暗屋に、少し日差しが差し込み、そのなかでお香と焚きながら、焚き出る煙を見つめて、あたたかい飲み物を飲んでいるとなんだかすごく落ち着く。
夕方に美容室に行く。美容師さんへ渡したい本があったので、本を買うために神田の三省堂に寄った。買った本は、伊藤紺さんの「満ちる腕」だった。
液体の気持ちのままで会うときは 心の中で「ごめん」と思う
『満ちる腕』(P10、伊藤紺著、短歌研究社)
美容室へ行き、最近読んだ本の話をした。一緒に読んだ、「出版禁止 いやしの村滞在記」の話をしたり、「コンビニ人間」を引用したりしながら、僕らは一体何をしていて、どこまでどこまでが自分自身なのだろうか、とかそういう話をいくらかした。帰り際に「お世話になっています」の気持ちを込めて、手紙と本をわたしたら喜んでくれて、とてもうれしい気持ちになった。
今日は夜は、友人とオンラインギョウザパーティーを行う(互いに冷凍餃子を焼いて食べながらだらだら話をするだけだけど)。
帰りに家の近くのスーパーで、味の素のベーシックの味と、しょうが味、それと大阪王将のベーシックの味の3パック買った。全部で36個ある。食べ切れるだろうか。
結果として、24個が限界だった。でもとてもおいしくいただいた。
僕らのなかで、クリスマス・イブイブ(23日)は、ギョザパの日になった。
夜眠る前に深澤直人さんの「ふつう」を読んだ。
「ふつう」とは日常に散らばった点を結んだ線の輪郭のことだ。「ふつうそうだろ」「そんなのふつうじゃない」「それ、ふつうすぎない?」。誰もがきっとそう思っている、そう感じている、そう捉えている、という暗黙に共有する抽象の輪郭が「ふつう」の原理だと思う。私は、その一見曖昧な抽象の輪郭を補足はっきりと見据えたい。それはデザインという抽象の輪郭でもある。
『ふつう』(P18〜19、深澤直人著、ddepartment)
12/24(日)
今日は、クリスマスイブ。そして僕の誕生日。
1日中、家で過ごした。10時くらいに起床して、 そのまま布団の中でだらだらと過ごす。16時くらいまで、布団の中で、本を読んだり、眠ったりを繰り返した。読んだ本は、「鬱の本」とか、伊藤紺さんの「満ちる腕」を読んだ。どちらも数日前に買ったばかりの本なのに、お守りみたいな存在になっていた。
人が生まれてくるのは「祝福」ではないという人に会ったり、そう書いたものに接することがたまにある。外界にさらされて嫌な目にあったり、思い通りにならない現実を知らない状態である胎内の時間を「幸福」と捉えれば、この世に生まれたこと自体が「不幸」だというのだ。
だが記憶のない時代を、現在と比較して「幸福」と捉えるとしたら、意識と記憶のある時代は全部それよりは不幸だということになってしまう。
そう反発しつつも、私は「生まれることは不幸である」と言える人が少し羨ましい。
そういう人は、誕生日を祝えないくらい、子どもの時から孤独だったり、たとえば本来愛されるべきだと思える人から愛されない不幸な経験をしたのかもしれない。あるいは、生来クールな性格なのかもしれない。
『鬱の本』(P54、生まれてくるという鬱、切通理作著)
友人から「ケンタッキーが混んでる」という情報を聞き、ケンタッキーを買うのは諦めた。夕食は近所のラーメン屋で済ませて、帰りにコンビニでケーキとグミ、チョコレートを買った。コンビニケーキで1人で祝うのは、やってみたいと思ってたからなんだか嬉しい。
SNSを少し覗くと「くりぼっこは寂しい」とか、「家族より恋人とすごしたい」とか。そういう文章をいくらか目にした。
それってどこから発祥した文化なのだろうか。確かに「大切な日だから大切な人と過ごした」のはわかるけど、そういう純粋なものよりも、ただ慣習的に埋めるのは、なんだろう、むず痒い。
夜はゆっくりすごした。お風呂に入りながら「鬱の本」を読んで、布団に入ってからも読んでいた。
一人一人の感じている「怖さ」の程度を比較するのは難しい。私は寝る前に、「今から眠って目がさめなかったらいいなあ」と毎日のように思ってから眠る。あしたの準備を一応するけれども、何かをめざしている途中で急死できたなら、幸福な人生ではないか。「まだまだこんな途中では死ねない」と思う人も多いだろうか。私はもう充分生きた。これ以上生きても、そんなに凄いことはできないと思う。謙遜ではなく、心からだ。
思春期のころは勉強も運動も遊びも嫌いだし日々憂鬱で、自分のこの苦しみを世に知らしめるような激しい死に方をしたいと願っていた。読んだ皆がこの世界に絶望し、後追いしたくなるような遺書を書きたかった。そんな文はなかなか書けなくて、何冊も本を出した。全作が遺書のようだと指摘されたこともある。指摘したのは映画『春原さんのうた』が国際的に評価された杉田協士監督。杉田監督は死ぬのが怖くない派っぽい。根拠はない。
私は今年、芸人になりたくてタイタンに学校(芸人コース)に入学した。あしたも朝から講義だ。宿題もやった。おやすみなさい。
『鬱の本』(P149、ため息を深く深く深く……ついてそのまま永眠したい、枡田浩一著)
LINEを開くとお祝いのメッセージがいくらか届いていて、うれしい気持ちになった。母親からの「おめでとう」は、大人になってからの方が嬉しい気がする。
充実した1日だった。よくねむれそう。おやすみなさい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?