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読書日記 | 4/1〜4/7

4/1(月)
8時半ごろに目を覚まし、お風呂を沸かしていた。
朝から熱いお風呂に入りたい気分であった。15分ほど床を掃除をしながら待つ。
最近は気温も高く天気がいい。半袖でもそれほど不便を感じない。
お風呂に入りながら永井玲衣さんの「水中の哲学者たち」を読みはじめた。1時間くらいゆっくりと湯船に浸かった。

仕事へ向かう電車でも「水中の哲学者たち」を読み続けた。

対話というのはおそろしい行為だ。他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷりと助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。ということは、他者に何かを伝えようとそもそもしなければ、硬い地面に身体を打ちつけることもない。(…)
 他者とわかりあうことはできません、他者に何かを伝えきることはできません、という感覚は、広く共有されているように思う。わかりあうことができないからこそ面白い、とか、 他者は異質だからこそ創造的なものが生まれる、とかいう言説もあふれている。その通りだ。その通り。全くもって、完璧に、同意する。だがわたしはあえて言いたい。
 それでもなお、わたしはなお、あなたとは完全にわかりあえないということに絶望する。

水中の哲学者たち』(P28〜29、永井玲衣著、晶文社)

永井さんのこの本のジャンルは、哲学エッセイらしい。固い言葉の哲学と柔らかく感じるエッセイの組み合わせは、この本そのものを鋭く捉えている気がした。読むとき哲学書ほど身構えない。ただダラけた姿勢で読んでいると、不意打ちみたいに背中から針を打たれた感覚になることがある。そして気がつくと、他者とわかりえないということだけが鮮明に分かっていく感覚になり、さびしくなり悲しくなる。でも同時に「私がそばにいるよ」と肩に手を当てた永井さんがそばにいるようにも感じる。

会社を出たのは21時ごろになった。といってもプロジェクトのメンバーとの雑談が盛り上がり、気づくと2時間ほど時間が経過していた。

帰りの電車で「みんな蛍を殺したかった」を読んだ。

自宅に着いてから30分ほど読み続け、気がつくと読み終えていた。
人はなぜ、嫌な気持ちになる本や映画を観たがり、読みたがるのだろう。
苦しみの中に、これまで避けてきた「何か」が垣間見えるからだろうか。


4/2(火)
7時ピッタリに目を覚ました。
岸政彦の20分休み」を聴きながら支度をする。岸政彦さんの話にはいつも日常がある。ただそこにある。近所のねこの話とか、リスナーからの結論のない日常の話。でもその解釈は、私から見た解釈でしかない。近所のねこに遭遇したことがきっかけに、生きる喜びを感じることもあれば、黒猫を見て不吉な気分になり、死にたくなることもあるように思う。例えば、タンスの角に足先をぶつけたことがきっかけで仕事に行けなくなるかもしれない。

仕事に向かう電車で「水中の哲学者たち」を読んだ。

 「生徒がとんでもないことを言ってしまったらどうするんですか?」

子どもと哲学対話をやろうとすると、ほとんど必ず聞かれることだ。(…)時に子どもは「なんで学校に行かなくちゃいけないのか」「なんで年上に敬語を使わなきゃいけないのか」なんて問いを持ち始めるし、めちゃくちゃな論理やまとまっていない言葉で自分の考えを語り出すこともある。そしてそれをいやがる大人も多いし、生徒の哲学対話の様子を外から眺めて「生徒はとんでもないことを言っている」と苦笑する教員も多い。期待が裏切られた、というよりも、やっぱりね、という表情だ。(…)

 「あのですね、哲学者のほうがよっぽどとんでもないこと言ってます」

たしかに、子どもたちは意外と「とんでもないこと」は言わない。どこかで聞いたことのある優等生的な答え、親から受け継いだであろう思想、社会に流通している常識を口にする。 問いに対して「答え」ではなく「正解」を言おうとするからだ。
 それに対し、哲学者は変なことばかり言っている。新プラトン主義の流出説とか。ニーチェの永劫回帰とか。ハイデガーの四方界とか。(…)
「とんでもないこと」はなぜ嫌われるのだろう。なぜ「哲学」ではないと思われるのだろう。なぜ、子どもたちがこの世の正解を探すことを止め、自分の矛盾を抱えた思いをおずおずと表現したり、冗長な言い回しやめちゃくちゃな文法であっても何とか考えを口にしたり、負荷をかけながらも言葉を探す姿を見て、「なんか、とんでもないことばかり言っちゃってましたね」と簡単にまとめてしまうのだろう。(…)

   哲学者は「とんでもないこと」を言うが、突拍子がないわけではない。彼らにはしっかりとした理由がある。動機づけがあり、その主張を支える基盤がある。同じように子どもたちにも理由がある。彼らのための、彼らだけの細く見えづらい道があって、その入り口にぽつんと頼りなさげに子どもたちは立っている。
 授業中勇気を持って発言した生徒が、終わったあとにわたしのところにやってきて「とんでもないことを言ってごめんなさい、先生のことを困らせたかもしれない」と申し訳なさそうに言いにくることがある。なぜそんな風に思うのだろう。なぜ自分の考えが、場に貢献していないと思うのだろう。なぜあなたが苦しんで産んだあなただけの道を恥じるのだろう。
 とんでもないことを言ってごめんなさい。
 わたしはこの言葉を聞くたびに泣きたくなる。

水中の哲学者たち』(P45〜48、永井玲衣著、晶文社)

仕事では1日中、人と話をしていた。「プロジェクトの課題について」話をして、モブプログラミングをして、1日を終えた。
話す前は臆病になるけど、話をしてみたらスムーズに言葉ができてきて楽しいということはよくある。でも話す前は少し怖い。なんだかこの少しの怖さは捨てたくないように思う。

帰りの電車で、自宅で湯船につかる時間で、眠る前の布団の中で、「水中の哲学者たち」と読んだ。

ある小学校の、何回目かの授業だった。彼らはもうすっかり哲学に慣れて、楽しみながら対話に参加することができる。(…)わたしの班は8人ほどのメンバーで、初回授業から説明や対話の途中で茶々を入れてくる男の子が入っていた。(…)とはいえ、小学校ではよくある風景だから、なんとか仲裁しながら、哲学を子どもたちと楽しんだ。
 だが、対話が始まってしばらくした頃、彼は誰かが話しているのを遮って、体をぐねぐねと動かし、両手をせわしなくこすり合わせながら、目を細めてわたしにこう言った。

 「本当は答え知ってるんでしょ」

答え、というのは、今回のテーマである「おとなとこどもの違いは?」に対する答えだろう。(…)彼は、あえてわたしの神経を逆なでしようと努めているような仕草で、大げさにうんうん、とうなずきながらつづけてこう言った。

「いいんだよ、はやく言って。言っちゃいなよ、答え!」

 彼はにやにやと笑っていた。わたしに手を差し伸べ、答えを促している。どうぞ、とでも言いたげな表情だ。
 わたしはそれを見て、ほんとうに、泣きたくなったのだった。

毎回の哲学対話の説明で、わたしは何度も「答えをまだ誰も知らない、もしくはわかったふりをしているだけかもしれない」と強調していた。だからこそみんなで考えを出しあって、吟味するのだ、と言った。わたしも、先生も、おとうさんも、校長先生だって、この答えがわからない。(…)
 だからその場ではもう一度、彼に向かって、彼一人だけに向かって、その説明を繰り返した。じゃなきゃわざわざみんなで考えないんだよ、わたしもわからなくて知りたいから、協力してほしい、と心の底からお願いした。彼はふん、と小さく息を吐いて何度かまばたきをした。別の誰かがはい! と手を挙げて、ぬるぬると対話が再開した。
 対話が終わったあとも、彼の言葉がわたしの中で反響している。彼にあったのは、深い絶望だった。常に誰かの答えがあり、それを問われるだけという学校生活や彼の日常。(…)
 考える授業っていったって、どうせ答えがあるのだろう。考える授業じゃなくて、答えさせる授業なんだろう。そういうもので、ずっとそうで、これからもそうだろう。

 ああ、わたしもそういう子どもだった、と帰り道を歩きながら思い出す。

水中の哲学者たち』(P63〜65、永井玲衣著、晶文社)

眠る前に心で祈るように思う。水中に誰かいますように。


4/4(木)
会社へ向かう電車で「水中の哲学者たち」と読んだ。

考えるということは、むしろ弱くなることだ。確固たる自己というものが、ひどくやわらかくもろいものになって、心細くなる。わかっていたつもりのことが、他者に問い返されて、わからなくなってしまう。見慣れたものが、ぐねぐねとゆらいで、不思議な何かに姿を変えてしまう。
 対話をするとき、その主体はむしろ曖昧になる。わたしは何が言いたかったんだっけ、何を考えているんだっけ。

水中の哲学者たち』(P121、永井玲衣著、晶文社)

僕は「祈る」という言葉がすきだ。強制や強要のような強いる言葉ではないし、ただただ主体に干渉せずに想うことのように感じるから。僕は強い言葉を使うよりも祈りたいと思う。

仕事は18時くらいに切り上げた。今日はサウナに行く。西新井にある堀田湯へ向かう。

家に帰るときに思った。今日はいつもより「整う」感覚が得られなかったように思う。理由を考えてみると、今日は銭湯に子どもたちが多かった。外気浴をするとき、子どもたちが走ったり、戯れ合うような声がたくさん聞こえてきた。堀田湯は、サウナの中、外気浴ができる場所では、nakamura hakukaやジブリの音楽、坂本龍一など、静かな音楽が流れている。いつもはそこに身を委ねる。今日はそれよりも、子どもたちの会話に耳を傾けていた。

自宅に帰ってから、眠くなるまで、「水中の哲学者たち」と読んだ。


4/6(土)
お昼になるくらいに渋谷の5 CROSSTIES COFFEEで作業を始めた。
向から電車では「水中の哲学者たち」を読んだ。

5 CROSSTIES COFFEEには、時折来ることがある。スクランブルスクエアの17階にある。ところで僕は高所恐怖症で、高い場所にいると確かに怖い。
にも関わらず、わくわくするようなハラハラするような感覚も同時感じる。
エレベーターで高層階に上がっているとき、手すりを握らないと怖くて上がれない。癖になってるみたいに何度も来てしまう。

夕方になる頃、井の頭線で渋谷から下北沢に移動する。最近ようやく、渋谷の駅間の移動をスムーズに出来るようになってきた。急行だったので下北沢まで5分もかからなかった。

街にはそれぞれの色があって、渋谷は少し疲れる。新宿はとても怖い。神保町は今肩の力が抜けすぎる。下北沢は丁度いい。力を抜いたまま、背筋をピンとできる感覚になる。

fuzkueで本を読む。
入店して、すぐにアイスコーヒーとキーマカレーを注文する。キーマカレーはキーマカレー自身も美味しいけれど、なにより副菜がいつも美味しい。
食事の豊かさとは、副菜の充実度ではないかと思う。
本は、「水中の哲学者たち」/「さびしさについて」を読んだ。

下北沢駅/小田急線/南西口を出てすぐ目の前にある「cinema K2」という映画館の看板が可愛くて、いつも写真を撮ってしまう。


4/7(日)
もうすぐ午後に差しかかるくらいの時間に友人と堀田湯へ来ていた。
人とサウナに来るのは初めてである。他人とサウナに入っているとき、みんなはどのように過ごしているのだろう。サウナのタイミングも無理に合わせたくない。外気浴でも会話をするよりもただただ個でありたい。
ただそれは一緒に来た友人も同じだったようで、少し安心した。

堀田湯を出てから、目の前にある「居酒屋」という名前の居酒屋に入った。

鉄湯上がりのビールはうまい。大体15分経つごとに、地元の40〜60代くらいのおじさんが集まってきて、テレビ中継の競馬を見ながら「あー、だめだこりゃ」「話に何ねえ」など、そんな声がちらちら聞こえてくる。

なんだが”居酒屋”という名前が似合っている店だと思って少し嬉しくなった。こういう日常の会話を聞ける距離で飲み食いできるのはなんだか嬉しい。wikipediaで「居酒屋」を調べてみると、次のように記述されている。

居酒屋の本格的な発展は江戸時代頃になる。酒の量り売りをしていた酒屋(酒販店)で、その場で酒を飲ませるようになり、次第に簡単なも提供するようになった。酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」(いざけ)と称し、そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していた。

日本の居酒屋(wikipedia)


まさに「居続けて」飲んでいるお客さんだった。今日は常連客の方々に居場所をお裾分けしてもらっている気持ちでお酒を嗜む。

店を出たあとも少し飲み足りないという話になり、近くのサイゼリアに入った。高校生ぶりのサイゼリアは楽しかった。びっくりしたことは高校生の頃から値段が変わってないことだった。ワイン/ピザ/サラダ/ハンバーグを頼んで、2000円前後。

ああ、今日は、久しぶりに友人と休日を過ごした。

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