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読書日記 | 3/25〜3/31

3/29(金)
外に出ると雨が降っている。
ガス代の支払いが遅れている。支払わなければいけないことを思い出すけど、気づくと忘れてしまう。今日は忘れずに払いたい。思い出すときに限って、会議中だったり手の離せないときが多い。

明日、映画を観ようと思い、仕事の合間で「オッペンハイマー」を予約をした。30分くらい経ってから、予約した日付を確認すると「本日」で予約していたことに気づいた。予約する日付を間違ったようだった。
急いで予約をキャンセルしようと、電話で問い合わせをしても機械音声しか返答がない。コールセンターへの問い合わせまでフローが複雑で時間がかかる。自分がミスをしたことなのにイライラしてしまう。そういう自分を認識してうんざりする。
結局15分くらい対応してもらい、予約をキャンセルすることができた。電話対応してくれたスタッフは優しく対応してくれた。対応してくれたスタッフの方にもなんだか申し訳ない気持ちになる。けれど血肉を感じる人の声を聞けると少しホッとする。

帰りの電車で昨日買った、中村文則さんの「」を読んだ。
」を読んでいると、日常の少し嫌なことをずっと眺めているような気分になる。
例えば、雨の日の電車の中で傘の濡れている部分が他の人の背中に無自覚に触れてしまって他人のジャケットの背中を濡らしてしまう現場を目撃するとか、電車内で子どもが泣いてしまって、その姿を見ている多くの大人が心配よりも嫌悪感を抱いている顔を目撃してしまうときなどである。

日常の中で精神的に安定しないとき、とても不幸で嫌な気持ちになる作品よりも、いつでも日常に起きるちょっと嫌なことをずっと目撃している方が辛くなり、苦しくなる。僕らはそこに自分の日常を感じて、自分や周りの誰かを投影してしまうからだろうか。


3/30(土)
早朝、6時30分ごろに起床した。買っておいたパンを食べて、身だしなみを整える。

今日は7時から2時間ほど友人とオンラインで話をする。
最近感じているモヤモヤを交換したり、読んだ本について話をしたり、取り組んでいる勉強についての話をしたり。毎週2〜3時間ほど話をしており、去年の9月からはじめた。もう半年以上も経っている。
当初の目的は、友人のアプリ開発と就職サポートのような目的であった。
その友人も4/1〜エンジニアとして働きはじめる。目的を実現したあとも、この活動・交流を続けていきたいという話になっている。
今後どのような営みにしていくかまだ不透明だけど、透明なままでも水のようにほのかに見えるような強すぎない繋がりを育んでいけた良いと思う。

9時過ぎくらいに、話を終えてサウナに向かう。
黄金湯という銭湯に行きたいと思っていたけど、どうやら土曜は開始時間が遅いらしい。
結局、西新井にある堀田湯という銭湯へ行き、3セット行った。

サウナの感覚は不思議である。3セット目に外気浴をしているとき、 深呼吸をすると視界がぐらぐらとゆれる感覚、そして同時に身体全体からセロトニン、エンドルフィンなど、物質が放出される感覚を味わった。少し怖くなるくらい気持ちがよかった。

12時半くらいに銭湯を出て、下北沢へ向かう。
移動の電車で「みんな蛍を殺したかった」を読んだ。
途中、心地がよくなり30分ほど眠った。

下北沢へ来た目的は、本の読める店fuzkueというカフェで読書をすることである。加盟店の本屋で1500円以上購入したレシートを見せるとカフェの料金が少し安くなるらしい。買いたい本もあったので加盟店である本屋B&Bへ寄った。1時間くらいプラプラしてから、「さびしさについて」と「視線の設計」を購入して、fuzkueに入店した。

途中、キーマカレーを食べながら、人をダメにするソファに横になりながら15〜19時の4時間くらい過ごした。店内の静かなBGMと外から聞こえる人々の声が調和して、過ごしやすい空間になっている。

みんな蛍を殺したかった」/「さびしさについて」/「人類の会話のための哲学」/ 「関係性の美学」の4冊を回しながら読んだ。

 滝口さんへ
 往復書簡をやりませんか?

さびしさについて』(P9、植本一子・滝口悠生著、ちくま文庫)

このように手紙がはじまる。自分の乏しい語彙には「往復書簡」という言葉が存在しなかった。
今年の初めくらいから手紙のやりとりをしている友人がいる。そこでは「文通」ということを使用していた。僕はこの「往復書簡」という言葉をやけに気に入ってしまった。今後友人との手紙のやりとりを「往復書簡」と称して、続けていければ良いと思う。

帰りの電車で「みんな蛍を殺したかった」の続きを読んだ。
家に着いてから友人と2時間くらいゲームをして、ゲームを終わる頃には疲れ果てていて、倒れるように眠った。充実した1日だったように思う。


3/31(日)
7時30分ごろ身体を起こした。
ケトルでお湯を沸かして、カフェオレを作る。顔を洗い、お香を焚いて、パソコンを開く。8時ぴったりくらいから沈殿物共有会が始まる。3週間ぶりに話をするので、話したいこと、聞きたいことがたくさんある。

11時くらいまで話をした。主に2つのこと話をした。
以前、映画の「正欲」を勧めていた。
1人は、映画を観てくれて、もう1人は映画と小説の両方を観て読んでくれていた。観たときに感じたことをそれぞれ共有して、それぞれの問いを見つけようという話になった。
***
僕は人との関わりについてよくわからないということを再認識したと伝えた。そういうモヤモヤに対して、これまでは一般的な定義「友達」「恋人」などの言葉を用いるのではなく、関係を見つめながら独自に定義(命名)していくというスタンスをとっていた。沈殿物共有会もその1つである。
この取り組みは客観的に見れば「雑談」である。ただ当事者の僕らはそんな簡単な言葉では語りきれない。沈殿物共有会は、それぞれの人生においてなんらかのポジティブな働きがあるし、生きる上で欠かせない営みの1つなのである。そのように、あらゆる関係を独自で命名して、生きのびてきたけど、共有の難しさという意味で、時折”さびしさ”のようなものを感じるときもある。これは一体なんなのだろうと、他のメンバーにも開示してみた。そうやって開示しているうちに、どうやら僕は、僕と他者の関わりのなかで何かに気づいちゃってる瞬間を、目撃したり、遭遇してしまうとき、新しい問いが見つかることに寄与したときに幸福感を感じるらしいということがわかった。うまく言菜にできない。要約してしまえば、貢献したいという抽象的な言葉でも表現できるように思える。けれどそういうわけでもない。
***
これからは今感じている感じ方の発酵を、肩に力が入りすぎない程度に見つめていきたい。
こういう内面を言語化していく作業を3人全員行った。有意識な会だったように思う。

11時過ぎくらいに終わり、すぐに準備をして、錦糸町のTOHOシネマズに向かって「オッペンハイアー」を観た。
正直よくわからないことも多かった。クリストファー・ノーラン作品特有の独特の時間軸で進行していく。3時間くらいの上映だった。

外では桜祭りなるものが行われていて、多くの子どもたちと大人がお花見をしていた。

18時から青山ブックセンターで「人類の会話のための哲学」の刊行イベントに参加するため、表参道に向かった。
向かう電車で「みんな蛍を殺したかった」を読んだ。
イベントは、Takramの渡邉康太郎さんと著者で哲学者の朱喜哲さんとの対談だった。
感想は率直に楽しかった。一緒に思考してるような感覚が会場全体で共有できていた気がする。となりの人が、対談者の2人が話すたびにうんうんと身体を動かすのが印象的だった。持ち帰るものはたくさんあった。
話していたことで印象的だったのは、 渡邉康太郎さんが企業のパーパスを考える仕事をするなかで、パーパスそのものを更新することが内在化してないとパーパスに縛られてしまう、というようなことをおしゃっていて、確かにと思った。
沈殿物共有会も命名は(仮)だよねと話をしていたから。
関係を言始化していくことも、ゴールを目指すというよりは、定義の更新を内在化させる仕組みを考えたいと思った。

帰りの電車で「苦しい時は電話して」を読んだ。

 死にたい理由はそれぞれで、とても個人的だからこそ、他の人は手を差し出すことができず、止めることもできない。そう考えていた時もあったのですが、今は違います。
 死にたくなる状態とは、熱が出たり、咳が出たり、血が流れたりすることと同じように、どんな人にも起こりうる症状だから対処可能なのではないか――。

苦しい時は電話して』(P7、坂口恭平著、講談社現代新書)

1日詰め込みすぎて、いつもよりも疲れた気がする。
夜は布団の中で「みんな蛍を殺したかった」を少し読んでから眠った。

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