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ブート・アンド・セットアップ

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私の最初のnote。続けることが第1の目的、 何を書くかが見えるようになることが第2の目的。 有料化も何も全てその次。
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深刻な問題ほど明るくロジカルに描こう

四十過ぎになるまで奨学金を返し終わらなかった者がまさに身近にいる身としては、放ってはおけない映画がこのほど公開されたので、しっかりと観てまいりました。社会派の硬派なテーマを扱っている割には、予告編から受ける印象はむしろ明るく前向きであり、最後まで楽しく観られそうな予感はしていたのですが、果たしてその通り。僕の見た回には監督がいらっしゃっており、映画終わりでパンフレットにサインもいただけたのですが、そのことを印象として伝えると「僕の性格ですネ」と笑って挨拶をされるほどの気さくな

長崎がモデルと聞いて諦めて見に行く

我ながらバカだなぁと思う。 監督のインタビュー を聞いて、多分微妙な映画だろうなぁと思ったのに。同日朝観に行った、ラスト・マイル の予告編で「長崎がモデル」のティザを見てしまい、 台風の雨が迫っているというのに(9月1日 日曜日)、無理をこいて見てきてしまった。我ながらバカだなぁと思う。 さけねこさん という一般の方のレビューでも 星2つ とされている通り、一般ウケはしない動画だったと思うし、実際そこまでワクワクドキドキするような映画でもなく(『ラスト・マイル』のように)

言葉がないから異文化をつなげない

国際政治についてもヨーロッパについても僕はほとんど何も知らないのだけれど、聞いていて何やらモゾモゾするものがあったので少し書いてみようと思う。モゾモゾするに至った動画は以下に貼り付けておく。なお、モゾモゾした部分は、動画の趣旨(主題)とは直接関係ない部分である。 動画の中で、小国分立のヨーロッパでの伝統的な合意形成の仕方というものへの言及があった。それによれば、ヨーロッパでは昔から、合意形成する際には、担当者同士が集まった時に、こういう状況なんだからここに関してはお前譲れと

書くことがありません!

書くことがある時とない時というのは、人間の生活上、ぜったいに、波状攻撃となって襲ってくるものだと思う。ある時はまったくネタが切れてしまって何一つ書けない反面、別の時には「あっ、あれも」「これも」「それも」という感じで、4つ〜5つくらい、書くことを思いついてしまうのだから、やるせなくなってしまう。 4つも5つも思いついたら今度はそれを文字にして整える「時間」の方がなくなってくるわけだから困りものだ。かくして思いついたことのうち形となるのはごく一部で、たいていの思いつきは脳内で

感情が先に立ちそうになる時

何回考えてもこいつらクズだと思える相手というか集団があり、こいつらがここまでクズでなければ今自分は絶対にこんなふうにはなっていなかったと思えるわけで、つまりそのことは残念なことに完璧に「現在」と接点を持ってしまっているから、奴らがどんなにそれをなかったことにしようとしたって、それは無理なのであって、時折浮き上がってきては感情のスイッチを押していくのであり、忘れようとしても無理なのである。 そういう悲しい経験をしている。 その集団と関わってしまった人の中で、やはり時々癇癪を

分かるところから進めるしかない

(昨日の続き) 「統計検定・準1級」を独学するにあたって八方塞がりの中、 結果的に落ち着いたのはこういう考え方だった。 じつをいえば、統計検定の受験へ向けて一歩を踏み出した理由も、皆目意味不明な統計検定の世界の中に、理解可能な部分が一部見えたからであり、それまでに関してはやはり、問題文の意味不明さに取りつく島をなくし、なすすべをなくしていただけだったのだ。 それは、範囲が広大で内容のめっちゃ細かいテキストの、ごくごく一部分に過ぎなかったのだが、着手できる部分が「ある」と

基準がつかめない

独学の大変さのひとつはその基準がつかめないことだと思う。 この点、予備校などが講座を提供している資格取得講座などは、今思えば非常にやりやすかったと言える。毎回ミニテストなどがあり、9割取れていることを目安に学習してくださいと言われたり、本試験前に演習回が何度もあって、理解不足の分野がわかったり、本試験前の模擬試験で自分の位置を知ることができたりといったことがあるからだ。 しかし今回受けた「統計検定の準1級」は、範囲が広大でめちゃくちゃ細かいテキストが1冊あるきりで、コンピ

独学は感覚をつかむものなのか

昨今、ネットの向こう側にそれなりに充実した資料やわかりやすい先生(AI先生を含む)が登場し始め、検索などもうまく機能し始めたことから、独学が台頭してきた。 僕たちが現役の学生だった頃は当然ここまでの環境はなかったから、学ぶといえばやはり生身の人間の背中を通して、その取り組み方や発想のぶっ飛び方やあり得ないほどの情熱などを、じかに学ぶのが意味があることだと思ってきたのだが、やはり今独学を無視しては語れない時代かと思う。 にしても、個人ブログなどは情報が断片的であるし、数学で

もてはやされる「独学」の意味について

教えてくれるはずのものと一般に認識されているはずのものを、実際には教えてくれない教育機関というものは、少なくともこの日本において、いたって平然たる面構えをして普通に存在していると思う。少なくとも自分はそんな教育機関のいくつかを経験してきたし、そうでない教育機関も経験してきた。受講生とトラブルになったり、消費者契約法などに引っかかったり、詐欺罪などで、世間の知るところとなるものは、規模が小さく、たとえ一般的な信頼を失ったり潰れたりしても、世の中にさしたる大きな影響のない、一部の

金で堤防を築き身を守るワテら

少なくとも明後日からはまた無料に戻るつもりだけれども、note で書いていくことにした理由の一つに、有料エリアが使えるというものがある。自分の記事が有料で売れるなんてまださすがに思っていないけれども、自分なりに精魂を込めて、本音で勝負しようとしている以上・・・

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僕らはそろそろやり方について話そう

片付けのやり方について書いた本が革命的だといってヒットするくらい、人は片付けそのものについては必要性や切迫感を感じる一方で、そのやり方については他人と話をしたことすらないという現状があった。従ってそこには確たる意識さえ向いていなかったわけであり、その弊害が汚部屋でありゴミ屋敷であった。 人は片付け同様、勉強そのものについては必要性や切迫感を感じる一方で、そのやり方については他人と意思疎通する機会がそれほどまでにはなかったと思われる。少なくとも僕の学生時代はそうだった。そして

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心から楽しんでいる消費はコンテンツになる

銀行口座残高に日夜目をやりヒヤヒヤしながら生活している私としては、キャッシュ・アウトがそのまま消費になってしまうのかそれとも投資となって将来のキャッシュフローを好転させるものになるのかは大きな運命の分かれ道だと思って見ています。 などと言いながら、実際には・・・

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普通がいいなんて今更言われなくても

みんなわかってるんじゃないのか。本当は。 まるきの話をきっかけにして「普通はいい」「普通ができるようになるのは案外難しい」「自分としても普通ができるようになることを当面は目指していくことになるかもしれない(なりそう)」といった話をじつはしようとしていたのだが、こんなもの、賢明なる読者諸兄にとってはむしろ当たり前で、書こうとしている自分すら、論証の必要性を見失ってしまって、そうこうするうちに気負いすぎ、記事を書くのにあいだが空いてしまった。 (もちろん言い訳です) なのでま

無くなっていたまるき

気になって調べてみたら案の定だったのでとてもいたたまれない。 気になったきっかけはこの人の動画だった。 錦市場といえばもはや外国人を中心に観光客でごった返す、台湾夜市ふうの食べ歩きできる食品商店街という印象しかないかもしれないが、少し前まではもうそれこそ落ち着いた、にわかの学生身分には近付き難い、京都という街のなんたるかを理解した人だけが立ち入りを許されているような、通好みの食材の店や飲食店が立ち並ぶ、通りだった。芸人のレイザーラモンHGさんが、同志社大学の学生だった頃、