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もてはやされる「独学」の意味について

教えてくれるはずのものと一般に認識されているはずのものを、実際には教えてくれない教育機関というものは、少なくともこの日本において、いたって平然たる面構えをして普通に存在していると思う。少なくとも自分はそんな教育機関のいくつかを経験してきたし、そうでない教育機関も経験してきた。受講生とトラブルになったり、消費者契約法などに引っかかったり、詐欺罪などで、世間の知るところとなるものは、規模が小さく、たとえ一般的な信頼を失ったり潰れたりしても、世の中にさしたる大きな影響のない、一部の「端物」教育機関ばかりで、本当の大物は決して捕まらないという、普遍的な世の中の理屈を、僕はその後も何度か経験したけれども、これもその一つだったのではないかと思ったりする。

自分の場合、少なくとも、塾、予備校、専門学校、および小学校までといったところは、本来教えるべきはずのものを、少なくとも教えるべきものと考えていたと思うし、実際曲がりなりにもきちんと教えてくれていたと思う。ところが、現実の世の中はそのような教育機関ばかりでもないというのが、約40年間あれこれ様々に勉強を続けてきた僕の、素直な実感であるのは、悲しいところでもある。

そしてにわかにここへきて「独学」というものがもてはやされはじめたという印象がある。2020年には、書籍『独学大全』をはじめとする何冊もの独学本が刊行されるという状況があって、なんなのかなこれはと思った。僕から見ればこの動きは、受講者の期待するものを教えることをこれまでしていなかった、知識所有側のヒトビトによる、たちの悪い冗談のようにしか、本当を言うと見えていなかったりする。けれどもじっさい、動画教材やAI先生といったものが一定の質を確保し始めた昨今においては、学びたい者にとっては独学というのは、スクールを選び間違えるリスクや、良い先生に巡り会えないリスク、費用が見合っていないというリスクなどを、それほど考慮しなくても良い、支払えば一定の質は保証されるという意味においては、選択肢としては存在する意味のあるものにはなっていたりはする。

この状況をどう見るか。

(続く)

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