写真に撮られるときのピースサインの真理
旅先で、はたまた街なかで、記念写真を撮る機会は多い。特にカメラ付ケータイの登場以降、カメラの存在は格段に身近になった。写真を撮るハードルも相当に低くなった。
というかすでに、写真に撮るということがあってあたりまえの世代に切り替わってしまっていると思う。だから誰も気負いもなく写真を撮り撮られる世の中になっている。
さてところで、この記念写真的な撮影の時、あなたはどのようなポーズをとっているだろうか?
ほぼほぼピースサインを出しているのではないだろうか。
御高齢の方々を中心に直立不動のポーズで撮られるというケースもあるが、総じてピースサインであろう。
ちなみに、外国の皆さまはもっと自己主張が強いポーズで撮られるかたが多いように見受けられる。具体的にはモデルのようにキメッキメのポーズをとる。陽キャだ。陽キャがいる…
というか日本人は写真に撮られる時の自意識が弱すぎはしないか?
自分が写真に撮られる時は、比較的ヘンなポーズをとっている。だって、仲間内のことだし、通りいっぺんのポーズで記録に残すなんてちょっとイヤだ。陰キャは陰キャなりに写真に撮られる時のテンションは少し高い。少しくらいはタガが外れるのである。
と、ここまでは前置きである。
今回、言いたいことは「ピースサインをとることについての意味」について、あらたな仮説を思いついたということだ。この件についてまとめておきたい。
さて、ピースサインである。一見はっちゃけたポーズのようだが、実のところ無難すぎるまでに無難すぎるポーズである。誰もがとるということは没個性であるということでもある。
そういう意味において直立不動のポーズとなんら違いはなく、控え目すぎる日本人的なポーズであると思わずにはいられない。
この没個性的であるという一点において、自分はピースサインポーズの否定論者である。
しかし写真を撮られるということの意味合いをあらためて考えると違う様相が見えてくる。
写真は自身の姿を記録に残す行為である。ことの大小は別にして、思い出を残すライフログ的なポジティブな行為であると捉えることができる。
しかし違う側面もあるということを考えてもらいたい。
写真に撮られるということは、自身の肖像権を無防備に他者に委ねる行為である。 肖像権というと硬すぎるかもしれない。自己の姿がコピーされることへの無自覚な不安感や忌避感とでも言おうか。
たとえば、いきなりカメラを向けられたら誰しも反射的に拒否感を持つであろう。このことが上述の心理に対する証左になっている。
その昔、写真に撮られると魂がとられるという迷信があったが、これも同様の心理が働いていたせいかもしれない。
写真を撮られるという行為は本質的に危険性をはらんでいるのだ。
さて、そんなところでピースサインである。
根源的には写真に撮られることは避けるべきことであり、だからそれを解除するためのトリガーが必要なのである。
ピースサインはそういう意味を持っているのではないか。
ピースサインをしたら写真を撮ってもいい。
そういう意味である。これがピースサインの持つ特性であり意味である。
もし街なかでピースサインをとっている人がいた場合、それは写真にとってもよいサインを出していると解釈してもよいのかもしれない。
これがピースサインの心理にして真理である。のではないか?
とはいうものの、自分はピースサインもみても写真に撮るような真似はしない。真理的にはよくても法的にはどうなの? いやダメでしょ。という話だから。
24年5月17日 初出
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