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西伊豆古道を歩く〜井田ー江梨編〜

2022年11月4日。本日は、井田から西浦江梨を直結していたという、現在は消えてしまった約4キロの道を探す。

かつては井田村と江梨村を繋いだ生活道であるから荷馬も通ったはずだと聞いている。西洋普請で大瀬崎への県道が開通してから、廃れていった道だ。

11:00 今回のゴール地点、西浦江梨(にしうらえなし)の海蔵寺で待ち合わせ。今回は伊豆新聞の森野宏尚さん、伊豆半島ジオパーク研究員の辻修次さん、ATAMI ART EXPO2022で「走湯山俯瞰図」を発表した清水玲さんと踏査する。

伊豆半島一周する修験の道、全踏破までラスト2は伊豆半島のスペシャリストが参戦だ。今回は気楽な一人山歩きではないので、いつも以上に事前の読図と聞き込み調査をしてきた。車を駐車して、スタート地点の井田(いた)へ移動する。

前回までの道はこちら↓

11時30分 伊豆峯次第の208番目のチェックポイント・井田神社からスタートする。井田神社の裏手には、日本唯一の野生原種の柑橘と言われる橘(たちばな)の群生地があると森野氏は話す。さすが円熟の新聞記者だ。造詣が深い。

古くは日本書紀や古事記にも登場する日本の夏を代表する植物だが、現在では野生の群生林が残るのは高知県土佐市(約200本)と伊豆半島の戸田と井田(約100本)のみとなった幻の柑橘だそう。

戸田が名産なのは踏査の際に聞いていたが、井田にも自生してるとは知らなかった。

橘は邪をはらうかのような清らかで凛とした香気。その常緑の力、種子が多いことから子孫繁栄の象徴ともされ「右近の橘、左近の桜」と言う言葉があるように、京都御所や皇室系神社の本殿にはその右側にタチバナ、左側にサクラが必ず植えられている。

今回は古道踏査が優先なので先を急ぐことにした。橘の捜索はまたの機会に。

橋を渡ってまもなく、向かって左に櫟の大木、右に那岐の大木がそびえた奥に木造の祠が見えてくる。そのすぐ右にある登り道が古道だ。

現代地図では行き止まりになっているが、県道まで通り抜けることができるか。

民家の脇から狭い薮をかき分けると道が広がっていた。人工物も多く、素人打ちのコンクリート道なので、昭和年間まで使われていたのだと想像できる。

歩いて県道に出るなら現代の車道で迂回するより、遥かにショートカットコースだ。

〝江梨迄 一里 四十?〟一里は約4km、江梨へ続く道であることを示す古道の遺構が残っていた。

最後は整備された階段を上り、県道に繋がった。

明治の古地図によると斜めに県道を跨いでいるのだが、ヘアピンカーブの先に井田の不動明王像に立ち寄っていく。

不動明王像の奥にも道があるので、気になって集落の人に聞き込みをしたことがあるのだ。「道ではなく、山の中には石丁場があった。不動明王像はその石で作られたものだ。江梨への道はもう少し南側にあったが今は誰も歩いていない。」と教えてくれた。

丁度前日、伊東市教育委員会考古学者・金子浩之先生に井田から江梨を歩くことを伝えたら「以前に論文を書いたことがある。」と言うので、文化財センターに立ち寄り読ませていただいた。

この不動明王像の銘文には集落の人の話を裏付ける手がかりが残されていたのだ。その拓影から読み取れる事実を列挙すると以下の通り。

①家綱の墓石は宝塔形式で伊豆井田村の山中の丁場で制作された。
②その宝塔と同じ石で、この不動明王像を制作した。
③宝塔は船によって海上を運ばれた。
④山出しと海上輸送の奉行職に伊奈氏の二人が就任執行した。
⑤制作指揮を執ったのは「御石作師 亀岡久三郎」であった。
⑥家綱の死去から八ヶ月後の月命日に石塔ができている。
⑦在地の妙田寺日勇・平田・今井・田口等が記念碑的に不動明王像を建立した。

季刊考古学別冊20号 近世大名墓の世界「雄山閣」学術専門書籍出版社
近世大名墓の制作 ー徳川将軍家墓標と伊豆石丁場を中心にー金子浩之 より

天領である伊豆国の代官といえば江川太郎左衛門が有名であるが、この銘文には譜代の代官・伊奈兵右衛門忠易の名前が刻まれている。徳川家血縁者だけに許される宝塔の制作から見えた井田の歴史を示す価値あるモニュメントだ。

不動明王像の50メートルくらい手前から山へ入っていく。枯れ沢の橋を渡って左岸沿いを歩くのが古道だ。様々な要因はあるだろうけど、山は人工林が増えると川が枯れると聞く。

自由競争で利益追求した経済活動を行えば、社会全体の利益も増大していく。18世紀後半の産業革命をきっかけに成立した資本主義経済は、200年くらいの歴史が浅い社会構造だ。

残念ながら、そんな物資的な意識の社会の仕組みは失敗だったと自然が証明している。

地球環境を一方的にコントロールしようとしても、人類は生き残れない。壊れた自然と向き合い、対話をしながら双方が共生する方法を探るべきだ。そう、縄文時代のように。

西浦で購入した由良みかんで休憩。由良はこの時期の品種の中でダントツに濃くて甘い。

消えた道は想像以上に明らかな道が続く。落ち葉がふわふわで歩きやすい。

蟻をも刺し通すという棘を持つアリドオシが道を阻む。

尾根が見えはじめた。もう少しで峠。急峻な道を歩く。

峠に差し掛かると瓶や缶が刺さっていた。意匠を見ると半世紀くらい前の物であることがわかる。

13時18分 峠に到着。石像の台座のみ1基。

明治の古地図で見るとルートはここから390メートルピークの右肩をトラバース、北東尾根に下ることになっているが、北斜面にはそういった痕跡はまったく見られない。

読図で打ったピンを頼りに下っていくと「少し上に道が見える」と森野氏。全体を見渡すと確かに道が見えてくる。この道が大正解。

疎林の斜面に踏み跡はないが、地面はフワフワとして自由に歩くことができる。ルートの取り方は谷側に下らないよう尾根の中央を選ぶ。

目標となりそうな桜の大木。ひこばえしてるので「キングギドラ」と命名された。

時折、木々の隙間から静岡県中部が見える。今日は澄み渡っているので、南アルプスまで見通せる。

ここからは幅1.5メートル大の岩がごろごろ、ガスの抜けた軽石状の石も目につくようになってきた。

北東方向に廻り込むように尾根を下っていく。

最後、明治の古地図とは若干違う道になってしまったが、今回下ってきた尾根道が歩きやすそう。まもなくして作業道が見えてきたが、全面に電気柵が張り巡らせていて山から出られない。

電気柵沿いに歩き、出入り口を見つけ作業道と合流。ここから現代地図の実線部分になる。

みかん園が広がる江梨。江梨(えなし)・久料(くりょう)・足保(あしほ)・古宇(こう)・立保(たちほ)は江梨五ヶ村といって、紀伊からやって来た鈴木氏がその地域を安堵していた。

伊豆国に下向した鈴木繁伴を初代とし、足利氏満に招かれて伊豆・相模国の船大将を務めた北伊豆随一の有力武門だ。

伊豆に北条早雲が侵攻してくるといち早く馳せ参じ、伊豆水軍(北条水軍)を率いる武将のひとりとして、伊豆衆21家のひとつに数えられた。

最後、この区間へのアクセスについて。今回のように車を2台で動けば挑みやすいコースだけど、公共交通機関を利用する場合、江梨までの交通は沼津から東海バスの終点。井田への交通は、予約のあったダイヤと区間のみ運行する乗合ジャンボタクシーふじみgo!のみであり、交通面においてハードルが高い。

だけど、その分味わい深い古道が待っている。土肥や戸田から、或いは沼津や内浦からの連泊を前提とした長距離自然歩道として推したい、魅力ある古道だった。

距離5.7km
所要時間 3時間半

次の道はこちら↓続けて読むと伊豆半島を一周できます。


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