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『無法松の一生』から考える音楽の重要性―和太鼓は何を示すのかー

『無法松の一生』知ってる?

稲垣浩監督『無法松の一生』って知ってる?今回は、この『無法松の一生』における和太鼓のシーンを例に挙げて、映画における音楽の重要性について考えていくょ。その上で須藤(2015)の映画論を引き合いに出し、論じていきます。

『無法松の一生』の和太鼓

『無法松の一生』は荒くれ者の無法松こと富島松五郎の一生を描いている。目上の位の高い女性に恋してしまったが故に恋を諦めて独りになることを選ぶ、という西洋的なラブストーリーの要素もある比較的革新的な内容の映画だ。実に、この映画が作られたのは戦争中のことだった。"無法松"というひとりの荒くれ者が軍人の未亡人に恋をしてしまうという純愛映画が戦争中に許されるわけもなく、検閲によって一部のシーンがカットされてしまったことが惜しい作品だ。映画の中でも特に有名なシーンが和太鼓のシーンで、記憶に残る印象的な場面となっている。
この和太鼓のシーンは終始力強さを感じるもので、それまでヤンチャというイメージ一つだった無法松の漢らしさや人間らしさが出る素晴らしいシーンだと思う。和太鼓を叩くと共にカタカタと回る人力車によって、まるで走馬灯のように過去や未来が浮かび上がってくるのが、大変面白い。私はここで後ろに流れる和太鼓による音楽が当時の時代背景を映し出しているように感じる。また、一定して生み出されるその音は強くも儚く、やがて散ってしまう無法松の純粋な恋心とその人生を表しているようだとも感じ取れる。


映画においての音楽

須藤(2015)によると、
映画の存在を肯定するためには、映画を通した経験を肯定しなくてはならない。三浦哲哉とジャック・オーモンはこの一点を共有している。オーモンが教えるのは、ある美学的価値にこだわるのなら、それを担うのは映画である必要はないということだ。映画固有の美学を抽出し、それを擁護することは、必ずしも映画の存在を肯定することには繋がらない。三浦もまた、「映画とは何か」という問いが映画の美学的性質の定義に直結することのないように気を配っている。彼は「自動性」が「映画を映画たらしめる最も基礎的な要素」(12頁)であると言う。だがそれに続けて「主観と客観という区別それ自体を、世界のまとまりそれ自体の認識をそのつど「再開」させる」のが「映画の力」(13真)だとすぐさま付け加えている。そもそもシュルレアリストによるオートマティスムの実践のように、「自動性」は映画固有の美学を指す語ではなかった。ここでより重要とされるのは、映画が「私たちが自明視している認識の諸前提にラディカルな動揺を与え」、それによって新たな「創造行為の端緒」となることである(203夏)。あえて定義めいた言い方をするなら、三浦の主張は以下のように要約できる。映画は現在を保存する芸術ではない。スクリーン上には過去が現出するのではない。映画とは、未来の創造である。(須藤 2015)
とあるが、私はむしろ映画固有の美学を抽出することで映画の存在を肯定することになると思った。例えば、映画においての音楽という存在が、映画を美しく彩り、より印象的なものとし映画の存在をより色濃いものとしていると思うからだ。『無法松の一生』から考えると、ある美学的価値にこだわるにあたって、この映画は純愛というテーマを和太鼓の描写を通じて強くも儚くも描いていると私は思う。その点この映画が美学的価値を担っていることには間違いがないと考えられる。
また、「映画とは、未来の創造である。」とあるが、『無法松の一生』の場合は、和太鼓という音楽と人力車の演出によって走馬灯のように過去と未来を映し出している。スクリーン上で未来を創造するだけの映画ではなく、人力車の表現で過去をも表すことによって音楽により深みをもたらしているのではないかと考えられる。

これ、参考文献ね

https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/94/0/94_KJ00009985528/_pdf/-char/ja

おわりに

『無法松の一生』における和太鼓のシーンを例に挙げ、映画における音楽の重要性について考えた。和太鼓のシーンでは過去と未来が共存しており、音楽によって無法松の純愛のテーマとその人生を表現していると考えられる。

さあ、無法松の一生を観よう!!!モノクロ映画も風情があっていいもんだょ



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