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映画『パラサイト』と『ジョーカー』を続けてみて考えたこと



インドから日本に帰る「臨時便」で映画を2本みた。今日はそのことについて書きたいと思う。

1本目は『パラサイト 半地下の家族』。2019年のアカデミー作品賞を初めて外国映画で取ったことが話題になった、ポン・ジュノ監督の韓国の映画だ。賞をとったことは知っていたけれど内容は全く知らないで見た。

半地下の住まいに干されている靴下。日光が当たるのが部屋の上の方だけなのだろう、上から洗濯物干しが吊り下げられているシーンではじまる。みなさんは半地下の住居というのに入ったことあるだろうか。日本ではそこまでなじみがないかもしれない。

私は半地下の住まいに入ったことがある。学生の頃、留学していたアメリカで同じく留学生だった友達を、スコットランドに訪ねた時、彼が友人とルームシェアしていた家が、半地下だった。半地下はあまり日が当たらないので、寒い。そのため家賃も安いのだろう。お金のない学生同士のルームシェアにはうってつけだ。そして、独特の風景が見える。人々の足が中心の、下から見上げる角度からみる光景。この光景を知る人は、きっと半地下に住んだことがある人だけだ。

私とジョニーはマイアミ大学で出会い、マレーシアからの留学生などと一緒に週末ビーチに行ったりテニスをしたりする友達だった。そこに恋愛感情はなかったので、「ちょっと言い寄られて断りづらい人がいる」とか、「誘われたけど2人きりになるのが気まずい」とかのシチュエーションの時、お互いをうまく利用して(苦笑)、一緒に行ってと頼まれたり、彼氏のふりをしてもらったりした。ジョニーはよく裸足だった。寒い国からきたから、いっぱいマイアミの温かい天気を楽しみたかったのかもしれない。

話をもとにもどそう。

そんな半地下で暮らす家族が、全員失業状態の貧しい状況から、ある家族に取り入っていく物語は途中でびっくり仰天の展開を迎える。そして、最後は悲しい結末がある。
ハッピーエンドではない。内容を知らないで見たほうが驚きを楽しめると思うのでネタバレになりすぎないようにしながら(でもやっぱりある程度ネタバレですすみません)この2つの映画を振り返りたい。

一方の『ジョーカー』。これはバットマンに出てくるジョーカーがどうやって生まれたのか?というストーリーなのかな?と思いながら、見た。白人の貧しい若者、精神を病んでいる若者が追い詰められていき、事実にさらにおいうちをかけられ、狂気を増していく物語。

この2つの映画には共通点があった。
格差、貧困、差別と、虐げられていた側の逆襲である。

パラサイトのほうは、抑圧されていた闇があった。それが、裕福な家族に触れていくことで、闇が刺激され増幅されていく。もしこの裕福でのんきな家族に出会わなかったら、増幅されなかったかもしれない、半ば諦め、忘れられかけていた、小さな闇が、拡声器を使うように最後に一気に大きくなり、爆発する。そして家族は一部を失いながらも、また元のような地下の生活に戻る。希望はあるようなないような。夢は見るけれど、それが実現される可能性は極めて低いだろうことも予測される、エンディング。

ジョーカーのほうも、格差と貧困がある。そして、精神疾患者への、差別と蔑み。このどうしようもない「理解されなさ」を抱えながら生きる主人公も、深い闇を抱えている。そして耐えに耐えながら耐えきれなくなり、ついに爆発して人を殺してしまう。彼の中にある耐えてきた部分については誰も理解してくれない。その殺人が、たまたまその時期に同じような格差の底辺で鬱屈とした気持ちだった多くの市民の賛同を勝ち取り、ヒーローのように崇められはじめ、彼は初めて自分が生きている価値を感じはじめる。そして最後は、彼を苦しめたあちら側の人々は殺され、同じような不満を抱えた人たちらしき群衆が暴動を起こし、その人たちに囲まれて、讃えられて、映画は終わる。とても不気味な終わり方である。正義は、あるようで、ない。

この映画の後半のジョーカーの神格化は、トランプ大統領が生まれた過程のようだと思った。自分があまり人前では言えなかった、言ってはいけないと思っていた気持ちを「代弁」してくれる人をはじめて見つけた人々は、歓喜する。メキシコからの移民に職を奪われている気がする。だから自分は白人だけど、いや白人なのに、貧しい。何かがおかしい。アメリカ人がもっと優先されるべきじゃないのか。自分たちが。そんな人たちがトランプを支持し、押し上げてきたのではないか。皮肉なのは彼らが支持するトランプは大金持ちだということだ。ヒラリーもお金持ちだが、ヒラリーはどうしても鼻持ちならない金持ちなのに対し、トランプはひょっこりバーで会ったりしたらつい下世話な話でもして意気投合してしまいそうな、同じ言語を話しそうなおっさんというのが、大きな違いなのだろうか。

さて自分はこのどちら側かといわれるともう圧倒的に殺される裕福な家庭側である。
それがインドで暮らしている時常につきまとう感覚。

日本でもお手伝いさんに来てもらっていたが、そのお手伝いさんと私の生活はそこまで変わらない。洗濯機も冷蔵庫も電子レンジもお互いに持っている。同じようなスーパーで買い物する。

でもインドで来てもらっているお手伝いさんのうちには、洗濯機も電子レンジもない。
外食すると、1つのメインディッシュは軽くインドの日雇い労働者の日給を超える。日本の日給が8000円だとして、日本では外食するたびに一皿8000円の料理なんて頼まない。そしてそのやや高級めのレストランにはインド人の20代の若者が来て昼からカクテルだかモックテル(アルコール抜きのカクテル)だかをグラスで優雅に飲んでいる。この人たちはどんな職業なんだろう?この人たちとうちの英語が出来て明るく聡明なお手伝いさんとの違いは何だろう?

格差がありすぎて、そしてそれが当たり前である社会に、くらっとする。
コロナウィルスは人を差別しない。
芸能人も首相も日雇い労働者もかかる。でも命が救われるかどうかには差がある。ニューヨークのコロナウィルスによる死亡率の人種別の割合に大きな差がある。健康状態や肥満などもももちろん関係があるが、それもまた、経済力と相関関係にあるものだ。

格差、貧困、差別、そして暴力。
残念ながらこの4つはものすごく相性がいい。
国と国の間でも、国の中でも、そして家庭の中でも、重ねられた屈辱は、ふとしたきかっけで、爆発する。そして後戻りは、出来ない。表面的に同じようでも、もう前と同じではない。

そして『パラサイト』のほうでは社会の底辺で暮らす人同士の争いとなってしまう。それはものすごく寂しく悲しい。それでも、最後の夢のシーンで、お母さんは庭に出ていた。あれは、あそこに埋まっているであろう同じ底辺の人にリスペクトを払っていたからなんだろうかと後から思った。この時点でかなり眠かったのでうる覚えだが、それは救いなのかもしれない、と思った。人を思いやるこころ。そしてどんなことがあっても失われない家族の絆などが。

日本に帰るときこの2本を連続してみたという話をしたら、「そんな重たいのよく続けて見ましたね!」と言われた。確かに飛行機で連続で見るにはなかなか重たい映画だった。でもロックダウン下でも感じていた、圧倒的に恵まれているほうにいるという罪悪感が、私をこの映画たちに向かわせていたのかもしれない。

まだ私が20代前半だったころ、飛行機で隣になったアメリカ人ぽい人と話していて、インドによくいくという話になり、“How can you stand poverty? I can’t!”(貧困すごくない?わたし耐えられないワァ)と言われたことを思い出す。そのとき、私はちょっと困った顔を浮かべながら何も言えなかった。そして心の中で「わたしは目を逸らさない」と思った。それを20年たっても覚えているのは、そう思っただけでなはなく「誓った」からなのかもしれない。

24時間それを考えている訳ではない。恵まれた環境を存分に享受し楽しんでいる自分もいるし、それも否定しない。「万引き家族」もそうだったけれど、こういう映画は決して後味がいいものではない。飛行機の中で「メリーに首ったけ」とかおバカーなラブコメとかを見たい気分の時ももちろんある。

でもなんとなく見てしまったこの2つの映画が、いま注目を浴びるということが、世の中のはっきりとは言語化出来ていない何かを表している気がして、思ったことを書いておこうとおもったのでした。

長くなりました・・・。

この記事は2週間の隔離期間のはじめに半分以上書いてありましたが、時間をおいてしまったらなんかアップする自信がなくなってきてしまい(これを書いて何の意味がある?とか誰が読む?とか思ってしまって。映画の批評とかよくわかんないし批評ですらないし)、2週間以上たってしまいました。そんなこんなで無事隔離期間を終えたいま、やっとnoteにアップします。


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