すべては断片的だけど、壊れてはいない

2018年12月25日のクリスマスに書いていたガチ文章。恥ずかしくなったらまた非公開にします。

 原美術館でのリー・キット展『僕らはもっと繊細だった。』にて。最終日の朝から行こうと思っていたがあっという間にギリギリの時間になってしまった。

最終日にたくさんの人が駆け込んで、その多くの人たちがスマホで写真を無遠慮に撮りまくっていることも織り込み済みの展示なのだとしたら、幾つか読み取れるものがあったので少しだけ話したいと思う。

なお、こういったあらゆる解釈を誘発するような展示として、自由に話し合うことが必要かと思ったのであえて自分の考え方を書いてみることにする。

 展示内容としては一階に二部屋、二階に三部屋と展示室全てにいくつかの淡い光ととれるものから明確なメッセージが読み取れるものまで壁面や絵画作品の上に、直接もしくはクリアボックス越しに投影されていた。

この展示の重要な点は、映像が壁面の四方や前後に投影されており、絵画自体を近くで見ようとする時、また移動しようとする時に(いくら気をつけても)他の鑑賞者の妨げになってしまうということだ。

普通、展示は作品同士を見る鑑賞者の目線は交差しないように配慮されている、もしくはそれすら気づけないようになっているので気づかないまま展示を楽しんでいることも少なくない。私自身最初は配慮せずに映像の前を歩き回る人に少し苛立ちを覚えた。スマホのシャッター音にも。この時点で「だれが"繊細"では無くなってしまったのか」についてこういった人々の無遠慮さをあばき出すような展示なのかと勘ぐってしまったが最後まで展示を見ると少し恥ずかしくなってしまった。

しばらく展示を見てると自分自身が展示空間を回る時にどうしても映像の前を通ってしまうことに気づいた。あれだけ人に怒りを覚えたのに見ようとすると誰かの妨げとなってしまうという最初は不自由に感じたけど、次第にこれは意図的であり、

さらに映像自体も話者がいない場で言葉だけがうわ言のように繰り返されていたり、木陰を見つめてな黙考している(もしくは即す)ようなものだったり、メインビジュアルにも使用されている何かを言いたいが言い出す勇気が出るまでのじれったくそわそわしている足が映されている映像だったり、何かを配慮して言いたいことを言えなくなっている状況や、自らを繊細に振る舞わせてしまっているような状況にある人たちを祝福して受け入れるような優しさを感じた。

 結論から言うと「決定的に繊細ではなくなってしまった世界、もしくはそれを受け入れられない自分自身をどう受け止めるか、どう楽しむべきか」という質問とも自問とも取れる形で私たちに差し出しているのではないか?と考えた

どうしても干渉しあって影響しあってしまう展示会場の中で今までの当たり前の配慮に気付かずに当たり前の事だと思って、それが出来ない人に怒りを覚えるようになってしまった私たちがどう立ち振る舞うか、その人と人との間の揺らぎをどう楽しめるか、物言わぬ作品たちが雄弁に語りかけてくるようだった。

リーはインタビューで「語りたくても語れない感情を、風や水の音が表現してくれるときがある」といった。語りたくても語れない思いを胸に秘める人たちを賛美し祝福するような、無意識のうちに「殺し合って」しまう私たちに向けて「すべては断片的だけど、壊れてはいない」世界との、他人との関係を肯定する。という強い祈りのようなものを感じた。

 すべてを見終わって最初の展示室に戻ると、はじめは気付けなかった空間の充実と肯定の溢れ、行き交う人々の影からは「自分以外の人間が自分と同じように存在している」という当たり前のことをもう一度考えさせてくれるように感じた。静かな中では気づけない、騒がしい展示会場だからこそ浮かび上がってくるようなもので、

無垢で繊細ではいられなくなった私たちにできる唯一の方法は人生を編集すること、もっと細部まで人生を信じ込むこと、つまり見方を変えてみたり、考え方を変えてみたり自分自身を変えてみる、そういったことに対してささやかな祈りでもあり世界への抵抗でもある、そんな展示だった。

それは美しい。その言葉だけで十分なのである。

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