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シュレディンガーはたぶん猫。[第22話]

第22話

 
 
第四章
「パソコン室の黒い幽霊、変異の件(第三世代)」
 

 今日は彼女が家に来て俺の自室にて過ごす、というドキドキイベントの日だった。まぁ、名目はお勉強で、まだ残っている夏休みの宿題を終わらせる、ということなわけだが。

 実際、宿題は本当に全てやり切っている。俺が夏休みの宿題をここまで自力で完璧に終わらせたことなど、これまでは一度もなかった。毎年のように最終日まで粘っていたというのに、今年に限ってはまだ夏休みが終わるその日まで、あと一週間近くを残している。すごい。

 さすが俺の彼女、優秀だ。自分の課題だけでなく、俺のサポートまでさらりとこなしていた。俺がつまづいた数学の問題もとても分かりやすく教えてくれたので、「そうだよ、教育学部を目指してるんだもんなぁ」と心から感心した。

 たまたま家にいた真由美に「えっ、兄ちゃん、もしかしてこれから彼女とえっちなことする?私、出かけた方がいいかな?」などと耳打ちされて煽られてしまったりもしたが。さすがに「うるせー!!でも二階には来んなよな!!」と小声でキレた。俺の部屋と真由美の部屋は壁一枚でしか仕切られていないのだ。さすがに痛恥ずかしい。

 えっちなことは、ちょっとしかしていません。

 ……いや、やっぱりそうしないと得られない栄養というものがどうしてもあるので、それはね、仕方ないです。これは俺だけじゃなくて、彼女にも同じく必要な栄養だと思うのでね、そりゃあ結果的にそうなりますよね。うん。仕方ないね。

 いくらか満足した気配を漂わせて、俺は今、彼女の華奢な腰を引き寄せるようにして後ろからぎゅっと抱きしめて、その首筋に顔を寄せているのだった。……ふう。

 心の補給作業というのは、実際、そんなに馬鹿にできないっていうかね、大事なことだと思いますね。本当に。

 で、そうやって昼から夕方の数時間を過ごしたら、あまり遅くならないうちに女の子は家に帰さなければならない。

「駅までだし、大丈夫だよ?あの、疲れてない……?」

 一緒に玄関で靴を履こうとすると、「いいのに」と少し遠慮されたが、俺は構わず家を出ると決める。

「いや、もう少し、一緒にいたいから」
「……っ」

 俺もそういうことを、本心として照れずに少しは堂々と言えるようになったんだなと、ちょっと感慨深い。恥ずかしがる相手の表情を、こうしてしっかりと観察する余裕が出てきた。成長したなぁ、と思う。

「どうせ、ついでに片山とも会うことになってるし」

 ただ、そう続けると、少し相手のふわふわに浮上していた気持ちがスンッ、と落ち着いたのが分かってしまった。

「片山くんと……?そう、なんだ」

 俺は「前々から思ってたけど、何となくそうだろうな」と感じていたことを、ここで改めて確認してみる。

「みずきちゃんさ。実は片山のこと、苦手?怖い?」

 いつの間にか、俺たちはお互いを下の名前で呼び合うようになっていた。先日の花火大会の後くらいから、自然とそうなった。まだ少し慣れないけど、今後はもっと積極的に呼んで馴染ませていく予定だ。

「あ……えっと。うん……少し、そうかも……。政信、くんの友達なのに。ごめんなさい」

 視線を漂わせたみずきちゃんは、一度は言葉を濁そうと逡巡していたようだけど、結局は降参して肯定した。そして彼女も名前呼びにはまだ慣れてないので、その意味でもちょっと声が詰まっている。こういう少し言いにくいことの数々も、遠慮せずにきちんと口にしてくれるようになったのは、いいことなんだと思う。

「や、大丈夫だよ。それに、特に今後も面と向かって引き合わせることはないと思うから」

 片山はでかくて怖くて、ヤンキー属性。対して、彼女は華奢な女の子。怖いのも当然だと思う。とっくに分かっていたことなので、俺もそんなことで怒ったりはしない。

「ただ、本当、悪い奴じゃないんだ。ああ見えて。先生たちの話だと、昔より素行もだいぶ落ち着いたみたいだし。俺が怪我させられるようなことももうないし、心配いらないよ」

 逆に「俺の暴力性の方が強いせいで、巻き込まれた片山が傷つく可能性の方がよっぽど高いかもしれない」という現実を知らせたなら。

 そんな俺を、彼女はどう思うんだろうか。その暴力を、ほんのわずかでも、みずきちゃんに向けるとしたなら。今と変わらぬ笑顔のまま、俺を受け入れてくれるんだろうか。

 正直言うと、全く自信はないな……。

「そうなら、いいんだけど……」

 みずきちゃんは、どことなく不安そうに応えている。右手がすがるように俺のシャツの裾を握っていた。

 あ……落ち込んだのかもしれない。

「みずきちゃん」

 察した俺は手を軽く引いて引き留めて、その頬に触れるだけのキスをして「気にすることないからね」と伝える。

 繋いだ手の接触部の他、頬や身体に触れる時には、俺はその部分の素粒子体を引っ込めて肉体優勢にする。わりと疲れる。けど、そうしておかないと、どうやっても彼女に違和感が伝わってしまうから。どこからどう来るか分からない虫退治には、全身素粒子体でいる方が、断然都合いいけれど。

 そうやってしばらく、彼女の気持ちをなだめて。

 俺は玄関のドアを開けた。それと同時に、大きく彼女と俺を包み込む形でバリアーを張る。シュレが以前に俺を守るために出してくれたものよりも、もっとずっと中の人間が違和感を感じない、精度が高いやつだ。成長した今の俺は、そういうものも自力で生成できるようになっている。

 虫たちは俺の弱点と見ているのか、最近彼女のことも狙ってくるようになってきた。なので、必ず会うたびに新規のバリアーを張り巡らせて覆っている。

 ――さて、ここからは、全く気が抜けなくなる。

 彼女には全く気付かれないように虫を殺しながら、この道を進む必要があるからだ。隠密行動、ってやつを遂行する。

 そろりとバリアーに近づく虫が見えたので、そいつの電磁気を操ってショートさせて落とす。歩を進めるタイミングで念のために足の素粒子体で踏んで完全に殺した。

 歩く方向と歩幅に合わせて磁場を誘導して、虫を確実に落として、一足ごとに踏み潰す。そうするごとに、素粒子残滓がまるで血が飛び散るように足元に舞って見える。

「受験生だけどさ」
 たん、たん。
「海にでも行こうよ」
 た、たた、たん、たん。
「夏が完全に終わる前に」
 たたん、たん。
「砂浜を裸足で歩くくらいはね」
 たん、たん、たん。
「きっと許されるよ」
 たた、たた、たん、たん。
「そのくらいのご褒美はさ」
 たたん、た、た。
「あってもいいはずだよ」
 たん、たん。

 ひどく趣味の悪い、足で所定の位置を踏む系のダンスゲームをやっているような気持ちだ。例えパーフェクトに踏めていても、全く楽しくはない。「ゲームならいい点数にはなりそうだな」とは感じたが。

「うん……行きたい。海」

 夏休みが終わったら、いよいよ勉強漬けになるから、きっと今後はあんまり遊びに行けなくなるんだな……などという寂しさや不安がその心にあったに違いない。楽しめの予定を未来に提示されることで、みずきちゃんはやっと少し安心した顔になった。それを確認して、こちらも笑顔を返す。

 始祖があの蝶の形に変異して以降、俺や片山の自宅を狙ってくる第二世代が自然と増えていた。始祖蝶自体が警戒音を出している気配はなかったけれど、虫特有の人間の目には見えない「何かの知らせ」がこっそり出ていたのかもしれない。

 例えば地球の生き物が出すフェロモンと同じような、そういう何か気を惹くもの?が――そんな仮説をゆるゆる考えながらもいくつもの虫を潰して、悟られないように明るい雰囲気でみずきちゃんとも会話する。

 最近の道端を彼女と歩く時の俺は、ずっとこんな感じだった。腹のところにグチャついた変異を隠すことも忘れない。

 そうして、最寄りの駅に辿り着いた。ここからみずきちゃんはひとりで家まで電車+徒歩だ。俺は彼女の体を覆うような虫バリアーを別に付与する。うっかり当人が触れてしまって気付かれないように、あえてサイズが少し大きいものを。

「またね。連絡してね」

 先日、電話がかかってきていた時に、ちょっとバタバタしてて虫退治から手が離せなかったタイミングがあった。その間も、とても不安にさせてしまったようだ。受験が近づいてきているという現実のせいで、少し頑張り屋さんで思い詰めがちな性格の彼女だから、その切迫感が多少メンタルに来てしまっているのかもしれない。

 だからちゃんと連絡は返してね――今の台詞はそういう意味も、少し含まれているんだろう。

「うん。そっちも、塾の時間の合間教えて。電話する」

 言い交わして、別れた。

 こちらも、ほぼ塾の合間にしか会えなくなってきているので、メンタル回復のためのまったりした恋人らしい時間が取りにくくなってきている。
あんまり素粒子体を数時間出しっ放しでいると、更に変異と疲労が大きくなるから、気をつけないとな……。

 そろそろ夏休みも終わるのだ。二学期以降を、俺はこのまま全力で回せるだろうか。しかも、受験本番がじわじわ近づいて来るという状況の中で。虫たちが「お勉強、頑張ってよね」などと遠慮してくれるとはとても思えないが。

 ここ数日、俺や片山やシュレの目の前に現れる、いわば「攻撃隊」に属しているとおぼしき虫が、妙に減ってきた、というデータがある。

 俺たちを襲いに来る殺意の虫」の一群もいるが、「次の変異のための成熟期を目指す虫」も、当然いるはずだろう。

 そしてそれが暗示することを考えると――次の変異、第三世代の虫の誕生はそんなに先のことではないのでは、と俺たちは予測している。

 外れて欲しい予感だが、最も確率が高いこれから一週間程度、俺たちは意識して街でのパトロールを強化することにしている。今日もバイトから帰ってきた片山とシュレと、揃って夜の街に出ることになっている。前にあったあの猟奇事件の発覚は朝。虫の活動時間のデータを考えると、夜のうちにことは起こると想定されるからだ。

 等々。厳しい気持ちのまま真顔で片山のアパートの階段を上がっていると、聞いたことがある声がした。

 アッコさん?

 やっぱりそうだ。アッコさんの部屋から、知らない男の人が出てきた。スーツ姿の人だ。親し気に会話を交わして「じゃあね」などと別れの挨拶をしている。ちょうど階段を上り切ったタイミングでその男の人とすれ違う形になり、わりと幅が狭い階段なので、俺はどうぞ、と降りて行こうとするその人の邪魔にならないようにと少しずれて、進路を取った。

 その動きに気づいたようで、先方からペコリと会釈が返ってくる。とても真面目な、いい人そうだった。でも決して「童貞丸出し」って雰囲気でもない、すごく落ち着いた雰囲気の人だったから、あれは「依頼してアッコさんに食われに行った奴」ではないと思う。不思議な雰囲気の人だな、と感じた。

「あれ?政信くんじゃない」

 そのまま片山の部屋の前に近づいていくと、アッコさんの方も俺の存在に気が付いて、声をかけてきた。それはやっぱり彼女特有の、あのカラッとした軽めの響きの挨拶だった。

「アッコさん。お久しぶりです」

確かに、片山の部屋に入り浸っているわりに、俺はアッコさんとはあの日以来、意外と会わなかった。片山の方はそれなりに連絡を取っている様子だったし、普通に会ったり話したりもしていたようだけども。

「そーちゃんは?」

 傍らに片山がいないことに気付いて尋ねてくる。こういうところはとても「弟を心配するお姉ちゃん」だ。相変わらず。

「バイトです。けど、そろそろ帰ってくるかと」
「そっかぁ」

 回答に、アッコさんは安心したように笑った。しっかり帰って来るならよかった、とばかりに。

「さっきの……彼氏さんですか?」

 気になったので、俺は一応質問してみる。アッコさんはへらりとあの曖昧な感じで笑ったので、「ああ、これは誤魔化されそうだな」と何となく予測した。

「まぁね、そんなところ~」

 やはり増してヘラヘラとされている。ということは、あまり詮索されたくはない相手なんだろうな、と考察する。

 それにしても、あの人、女装も似合いそうな中性的なイケメンさんだったな。しかも、その手に下げられた、大手子供用品店のロゴがバーン!!と入った紙袋は、見るからにパンパンだった。い、イクメンさんなんだろうか。

 一瞬、イクメンさんってことは奥さんいる人との浮気?とか、付き合っている人がいるのに童貞食うような活動していて平気なんだろうか、とか色々考えたけど、この場合、当の俺も「間男」本人だ。その上、「たった数時間」の泡沫の男で二度目以降はないわけで。つまり、俺はアッコさんにそんなことをどうこう言える立場の人間じゃないのた。

 アッコさんの部屋に「そういう意味」で玄関から入ることは、基本もうない。こうして一歩身を引いた場所からしか接触できない人になった、ってことだ。

 ――だから、何も言わない。

 ただし。少し別の相談はしたい気もした。

「あの。アッコさんは俺の性癖とか恥ずかしい話とか、全部もう知っちゃってる人だから、訊くんですけど。彼女のことを傷つけたくない場合、俺はどうしたらいいと思いますか」

 こういうことを訊ねる相手として、俺の全ての知り合いの中で一番ふさわしい人こそが、アッコさんだと思う。

「おお、彼女ができたんだね~。そっかそっか、オメデトー」

 問いに応える前に、まずは俺の成長をしっかりと祝ってくれた。それからごく真面目な思案顔になる。

「……そうだねぇ。彼女が受け入れられるタイプなら、一度くらいは、試してみるのもありかな」

 こういう時に絶対に目の前の男を笑わない人なので、「やっぱりアッコさんに訊くのが最適だな」と心底思う。

「ダメだった場合は……」
「アウトソーシング。他に頼む。じゃないなら、ただひたすら行き場なくキミひとりが耐えるしかない、かな」

 きっぱりとアッコさんは言い切った。これと同じような悩みを先に既に抱えてとっくに考えてもいて、その結論として私もそうしている、というような、迷いのない言い方だった。

「自分がされるのはとても耐えられないけど、他で済まされるのも絶対に嫌。それは私、ちょっと彼女としては認識が甘いと思うんだよね。それって一方的にキミにだけ耐えさせる手段じゃない?私としては、恋人関係の在り方としてはフェアじゃないと思うのね。持続可能な関係性とは言えないし」

 言われて、「そっか、俺は実はずっと耐えてたのか」と腑に落ちた。だから今、少しキツいと感じているのかも、と。

「キミがそれにさえも快感を得て心底楽しめる、ってタイプなら、別にいいんだけど。そういうわけでもないでしょ?」
「……まぁ、ですね」

 確かに楽しめる人ならいいのかもしれないが、俺はそこまでの忍耐があるわけじゃないもんな、と再び納得する。

「傷つけたくない気持ちが強いのなら、割り切ることもある程度必要。彼女に与えるのが『この世のどこにでも転がってる失恋の痛み』になるのか『全く別の心身の痛みや傷』になるのかを、ある程度選べるっていうのなら、前者の方が『次の男に辿り着くまでの弊害』が少なそうではある、かな」
「次の……」

 俺は思わず呟いて。けれど、それを具体的に想像することを、脳は強めに拒否する。そんなことはまだしたくないと。

「酷い男だった、って一言で言うとしても、酷さにも色々と種類があるわけよ。例え別れた後に死にたくなるくらい後悔するとしても、その先の未来があるんだから。キミにも、彼女にもね」

 そう続けたアッコさんは、やっぱり頼れるお姉ちゃん以外の何者でもなかった。

「アッコお姉ちゃんがアドバイスできるのは、この辺までかな~。どう?役に立ちそう?」

 あえて生真面目さを解くように、「どうかな?」と軽めの口調でアッコさんが首を傾げて見せる。

「はい。ありがとうございます。アッコさんに聞いてもらえて、よかったです。もうちょっとだけ、あがいてみます」

 なので、俺もさも弟っぽく感謝の意を示す。すると、ふふっ、と小さくアッコさんは笑ってくれた。

「本当ねぇ、そーちゃんの側にいる子がこーんなに可愛くて素直な友達で、お姉ちゃんは嬉しいなぁ」



[つづく]

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