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映絵師の極印-外伝-『兄と弟』

※この作品は「映絵師の極印(えしのしるし)」を本編とした
 番外編的作品であり、本編の流れとは直接的な関連性はございません。

 また、多分に作者(当作品)オリジナルの設定が随所に散りばめられているため
 作品本編のストーリーや設定と若干の差異が生じる場合がございます。

 その点をご了承いただければ幸いです。

―――晴れ渡る日の午後、襖の隙間から差し込んでくる日差しの強さに、炎は思わず目を細めた。

真夏特有の突き刺すような日差しと
湿気を含んだ熱気によって、身体中からとめどなく流れ出る汗の不快感に炎は顔をしかめる。

「あぁ暑い・・・こう暑くっちゃぁ、筆も満足に走らんわ」

座布団の上で乱暴に胡坐をかきながら、指で乱暴に机をたたく。
先ほどからその口調は不機嫌そのものである。

したたる汗を拭いながら、炎は机の上に目を落とす。
机の上には白紙の紙が一枚。

隣に置かれた硯(すずり)の上には使い込まれた筆が一本。

それを見て、「はぁ」とため息を落とす。
机を叩く指は尚も止まらない。

筆を手に取っては戻し、手に取っては戻しを繰り返すこと約1時間
白紙の紙には、一向に何かが描かれる様子は無い。

その現実が、より一層彼を不機嫌にさせる。
机を叩く指の音が、先ほどよりも強みを増していく。

「アカン、まったく描ける気がせんわ」

絞り出すような声で、炎がポツリと呟いた。

「炎兄ぃ・・・その台詞、さっきも言うてなかったか?」

「実際、ホンマに書ける気がせんねんから、しょうがないやろ」

「そんなこと言うたかて、仕事なんやからやるしかないやろ・・・」

同じような言動を何度も繰り返す炎の様子を見かねて
対面に座る炎の弟、陸がそう返す。

その言葉に、炎は顔をしかめながらゆっくりと視線を移す。

炎とは対照的に、規則正しい姿勢で座布団の上に正座をし
うだるような暑さにも関わらず一切顔色を変えることなく
涼しげな顔で筆を走らせるその姿を見て、炎は唇を曲げる。

「ジロジロ見んなって」

「別に、ジロジロ見てへんわ」

陸の前に置かれた紙には、既に完成しつつある絵が一枚。

「お前はええよな、順調そうで」

「そんなこと無いで、俺も今日は筆が走らんわ」

「俺より進んどいて、よく言えるわ」

「よりにもよって、ソレと比べんなよ・・・」

冷ややかな視線で、陸が指を指す。
その先には、未だ白紙のままの炎の机の上の紙。

唐突に、机を叩く指が止まる。

「・・・むぅぅぅ」

絞り出すようなうめき声を挙げながら胡坐をかいていた足を広げ
炎は畳の上に勢いよく大の字で寝転んだ。

「ちょ、炎兄ぃ・・・何してんねん」

「今のは傷ついた、幾らなんでも言い過ぎやろ」

「何言うてんねん、事実やろ」

「俺はもうアカン、弟の心無い一言で俺の心は完全に折れた
 もう何も描ける気がせん・・・弟よ、あとのことは全てお前に任せたぞ」

「俺はともかく、親父にぶっ飛ばされんで」

大人げない兄の拗ね方に、陸はあくまでも冷静に返答する。
『親父』という単語に反応した炎が、視線だけを陸に向ける。

「大体や、なんで親父は俺らに任せて自分は描こうとしないんや」

「親父は親父でちゃんと書いてるやろ」

「親父の絵は、皇宮への『献上品』とちゃうやろ」

彼らが生まれるより以前、あるいは物心つくより前、時の皇帝によって開催された
絵の腕と、絵画の出来栄えを競い合う『皇宮映絵会』と呼ばれる大会があった。

その大会で優勝をおさめた彼らの父「初代犬剣」と彼の所属するDハンズは
大会優勝の褒賞として町内において、皇宮お墨付きの証を貰った上で
絵画を売買することが出来る権限と
定期的に皇帝、または皇宮へと絵を献上する権利を勝ち得たのである。

特に、皇宮へと絵を献上することは全ての映絵師たちにとって
誉れとも呼ぶべき事であり
大会の終了から数年の歳月が流れた現在でもこの皇宮への絵の献上は
今尚Dハンズのみに許された仕事であり
言わば、彼らだけに与えられた特権のようなものである。

この事実が、映絵町内において、Dハンズという組織が
全ての町民たちから一目置かれる存在たる所以ともなっているのである。

「なんで俺らが皇宮に献上する絵を描かんとアカンねん、俺らまだ修行中の身やぞ」

「俺はともかく、炎兄ぃはもう十分絵の腕は立ってるやろ」

「親父に比べたらまだまだやし、第一お前と俺もそんな変わらへんやろ」

「まぁ、どんだけ文句言っても、皇帝の命令じゃ仕方ないよな」

「皇帝も何考えてんねん、未熟な俺らの絵を献上しろなんて」

皇宮への絵の献上。
その誉れある仕事は、Dハンズの長とも言うべき初代犬剣の仕事であった。

しかし、炎と陸、この二人の兄弟が絵の修行を始めて暫く経った頃
唐突に、皇帝より直々に命がくだったのである。

『皇宮へと献上する絵は、今後初代犬剣の息子、炎と陸に任せるものとする』と

本来ならば異議を唱えてもおかしくはないこの通達に
初代犬剣は一切の反論も唱えず
その言葉に従い、二人の息子にこの栄誉とも言うべき仕事を譲ったのである。

果たしてその理由は何なのか。

依然として、その理由は二人には語られていない。

それは命令を下した当事者である皇帝と
それに異を唱えることもなく聞き入れた、初代犬剣のみが知る事であった。


「なぁ陸、ちょっと頼みがあるんやけど」

尚も寝転びながら炎は陸に視線だけを向けながら話しかける。

「断る」

「即答かい!」

炎の言葉に、一瞥すらすることなく陸が返答する。

「どうせ親父の画廊から絵をくすねてきて
 それを自分の作品として献上しよう、とか言いだすつもりやろ」

「さすが俺の弟や、よく俺の言いたい事が分かったな」

「前に同じことやって親父にブチ切れられたんはどこの誰や」

至極同然とも言える陸の指摘に、炎はバツの悪そうな顔をする。

「そういえばそんなこともあったな・・・」

「都合の悪いこと全部忘れるんは、炎兄ぃの悪いクセやで」

「お前のせいでイヤなこと思い出してもうたやんけ、責任取れや」

「理不尽すぎるやろ・・・」

「あんときの親父、ホンマに恐かったもんなぁ」

「俺まで諸共怒られたねんで、炎兄ぃのせいで怒られるんは二度とゴメンや」

「悪かったって」

さして悪びれる様子も無く、謝罪の言葉を口にする炎。
そんな炎の様子を見て、陸は今まで手に持っていた筆を硯の上に置き
炎に視線を向けた。

「だいたいな、炎兄ぃ」

これまでと打って変わって、陸の口調が真面目なものへと変わる。

「炎兄ぃはあの初代犬剣の息子なんやで、もうちょい真面目にやらな」

「それはお前も同じやろ」

「炎兄ぃは長男や、俺と違って犬剣の名を継がなアカンやろ」

「俺が?ははっ・・・無い無い、ありえへんって、天地が割けても無いわ」

自虐的な笑みと共に、軽口をたたく炎の様子を見て
陸の額にかすかに青筋が浮かびあがる。

背後で明確に怒気を発する陸の気配を感じ取った炎は
半ば反射的に、思わずその背中を丸めてしまう。

「炎兄ぃ、家名を長男が継ぐのは当たり前やろ・・・
 毎度のごとくそんな無責任なこと言うなって」

「俺より実力のある兄弟子がおるのに
 それより実力の無い俺が家名を継いで良い理由なんか無いやろ」

目をつぶり、考え込む陸。
兄の言う人物が誰なのかは明白であり、彼の言うことももっともであった。

しかし、彼のその言い分をそっくりそのまま飲み込む事は出来ない。

「狼兄ぃのこと、言うてるんか?」

「狼の兄貴以外に誰がおるねん」

「狼兄ぃは無理やろ、本人にやる気があらへん」

『狼』と呼ばれる人物、彼らの兄弟子にあたり、初代犬剣の直弟子でもあるその男は
先の映絵大会において初代犬剣と組んで大会を勝ち上がり優勝をおさめた立役者である。

筋骨隆々の肉体に、誰もがたじろぐような強面。
一見して、とても堅気の人物とは思えない外見をした人物。

到底、絵を描くような繊細さを微塵も感じられないその印象とは真逆に
絵の腕前は折り紙付きで、現時点でDハンズ内においてその実力は
初代犬剣に次ぐものと評されるほどである。

「実力は誰よりもある、一番実力のある奴が名前を継ぐべきやろ」

「狼兄ぃ自身がやらへん言うてるしな、何より、旅だか何だか知らんけど
 あちこち動き回ってて全然町に戻って来ないやろ」

「それでもや、あんだけ実力ある人を差し置いて
 次の犬剣を継げって言われる俺の気持ちも考えてくれや・・・」

「やったら超えてやればええやろ、もっと絵の腕を磨いて
 狼兄ぃよりも凄い映絵師になればええんや」

「簡単に言うなや、お前、狼の兄貴よりも凄い映絵師なれると思うか?
 あんな凄い人、超えられるわけ無いやろ・・・」

背を丸めて、弱々しく呟く炎の様子を陸は見つめる。

旅と称して悠々自適に各地を転々とする風来坊が故に、町には滅多に戻ることはなく
幾度か次代の犬剣襲名の打診は受けたものの、決して首を縦に振る事はなかった。

誰もが認める実力を持ちながらも、決して立場や身分を欲しない兄弟子。

彼の描く絵を見る度に、その実力の高さを痛感させられてきた。

その兄弟子と比較されながらも、長男と言うだけで次代の犬剣を継ぐ者として
Dハンズの面々からの期待を一身に受けざるを得ない炎。

その重圧は、同じ犬剣の息子とは言え
一歩引いた立場から見る事の出来る自分とは文字通り、桁違いのものであろう。

「炎兄ぃ・・・」

「何かにつけて矢面に立たされる俺の気持ちは、弟のお前には分からんて」

天を仰ぎ、陸は自身の言動を反省する。
いつもこうだ、と後悔する。

兄を鼓舞し、責任感を持たせ、奮い立たせようと促すも
その思惑はいつも空回りをし、結果として自信喪失させてしまう。

偉大過ぎる兄弟子がいるが故の苦悩。
長男という重圧こそ無いものの、その苦労は自分とて分かっているはずなのに。

「悪かった、炎兄ぃの気持ちも考えず、好き勝手言うて」

後悔の念から、謝罪の言葉を口にする陸。
その言葉を受けて、炎の肩が露骨なまでにピクリと動く。

何かイヤな予感がする、陸の直感がそう告げた。
すぐさま次の言葉を紡ぎ出そうとする陸を制し、炎が言葉を発した。

「陸よ、弟よ・・・悪いと思っているなら俺の頼みを聞いてくれるか?」

いかにも、あからさまに、分かりやすい口調で炎が語りかける。

「あ、あぁ・・・なんや?」

「弟よ、本当に悪いと思っているか?」

「・・・思ってるよ」

天を仰ぎ、陸は自身の言動を再度、反省する。
いつもこうだ、と後悔する。

兄の変わり身の早さ、お調子者っぷり。
どこまでが本心か計りかねる底の見えない態度。

そのしたたかさに、いつも振り回されていたことを。

こと、ここに至って悟る。
自分は、兄のペースの乗せられてしまっているのだ、と。
全ては兄の『演技』だったのだ、と。

「陸よ、お前は本当に兄に対して悪いと思っているのか?」

「しつこいな!何回言うねん!」

あまりのしつこさに、思わず突っ込みが入る。

よく見ると、兄の背中が小刻みに震えているのが分かる。
間違っても悔しさ、不甲斐なさ、責任の重さに耐えかねて
などではないことは分かり切っていることである。

丸まった背の向こう側。
落ち込んでいたと思っていたその顔には、おそらく笑みが浮かんでいるだろう。

したたかな兄め、と心の中で悪態をつく。

こうなってしまってはもう手遅れだ、と半ば諦めの境地に入る。

「やったら陸、俺の頼みを聞いてくれるか?」

「もうええ、はよ言えや」

「なんやつれへんな、もうちょい付き合ってくれてもええやん」

「もう茶番はええやろ、はいはい俺が悪うございました。
 それで俺は炎兄ぃに対して、どんな償いをすればええんや?」

「おいおい弟よ、そんなにカリカリすんなや、落ち着けって
 ちゃんと骨食ってるか?」

陸の開き直った態度に、炎は肩をすくめながら苦笑する。
「誰のせいや」と呟く陸に、余裕綽々の態度で炎は応じる。

「陸、お前が俺に対して言い過ぎたって反省してるのは分かってるつもりや。
 だからってその態度はアカンわ、反省の念が伝わってこうへん。
 ホンマに反省してるなら、ちゃんと真摯に、言葉と態度で現さんとアカンやろ?」

「いや、まぁ・・・それは確かにそうやけど・・・いやいや、なんでやねん!
 俺別に何も悪くないよな!?どっちかっつうと炎兄ぃが悪いやろ!
 何でそれで俺が炎兄ぃに諭されなアカンねん!」

「落ち着け陸、一回落ち着け。そんなカリカリするな。
 一回深呼吸しよか?ほら、ゆっくり吐いて、吸ってー
 いち、にぃ、さん・・・よし、落ち着いたな?じゃあ改めてこの兄に謝罪を」

「落ち着いて深呼吸したとしても、俺何一つ悪くないよな!?」

額に青筋を立てて怒鳴り立てる陸の様子を見て、炎がケラケラと笑う。

「はぁ・・・ったく、このクソ兄貴は」

炎の態度に、陸は頭を抱えて、溜息を漏らす。

「すまんな、からかいすぎたわ」

「もうええって、いつもの事やしな・・・もう慣れたわ」

さすがにやり過ぎた、と感じたのか炎は笑いすぎて浮かんできた涙を拭いながら
「悪かったって」と謝り、身体を起こす。
ひとしきり笑うと、姿勢を正して、陸に面と向かうように座り込んだ。

その表情には、先ほどまでとは打って変わって
ふざけた様子は一切見られない。

「なぁ、陸よ」

「・・・なんだよ」

改まった態度で話し掛ける炎の様子に、陸は一瞬面食らってしまうも
そこに、冗談めいた意思が一切感じられないことから
気分を落ち着けて、炎に向かって真っ直ぐに対峙する。

「・・・陸」

「なんやねん、かしこまって」」

「陸、お前が俺の事を考えて色々と言ってくれるんは分かるで
 俺もアホやない、そのくらいのことは分かってつもりや」

「・・・炎兄ぃ」

「俺も分かってる、犬剣を継がなアカンことも、覚悟を持たなアカンことも
 けどな、俺もまだまだ子供や・・・そんなこと言われても、自信があらへん」

薄っすらと笑みを浮かべながら、物憂げに机の上の眺める。
その笑みには全くと言っていいほど力が無く
いつもの快活な兄の姿からは想像も出来ないほど、弱々しいものだった。

「もう少し待ってくれ、俺も俺なりに色々考えてる。
 ただ、もうちょっと時間が欲しい・・・俺も考えなアカンことがあるんや」

「炎兄ぃ・・・」

「答えは必ず出す、お前を失望させるようなことは決して無い
 だから、俺が答えを出すその日まで、待ってくれるか・・・?」

天を仰ぎ、陸は自身の言動を三度、反省する。

なんてことだ、と心の中で呟く。

兄は兄で、色々と考えていたんだ。
周りの重圧に耐えて、自分の立場を自覚して、考えを悩ませていたのだ。

兄は何なりに、重く、深く悩んでいたのだ。

そんな兄の胸中などいざ知らず、自分は兄の為だと言い聞かせて
兄を追い詰めるような言葉を投げかけ続けていた。

何が弟だ、と。
何が兄の為だ、と。
陸はこれまでの自分の行いを、ひどく後悔した。

「炎兄ぃ、俺こそ悪かった・・・炎兄ぃの気持ちも考えずに
 俺も自分の言いたい事ばっかり言ってきて」

「ええねん陸、お前が俺のことを考えてくれてるんは十分伝わってる。
 お前のその気持ちは、俺も嬉しいんや」

「炎兄ぃ!」

「なんや、むずがゆい話になってもうたな」

照れ隠しからか、炎は陸から視線を反らす。
ふと、思い出したように「あぁ」と呟くと、机の上の紙に視線を落とす。

「そういえば、俺もお前も仕事の途中やったな、随分と脱線してしまったな」

「もとはと言えば、炎兄ぃがサボり出したんが原因やろ」

「そうやったな、悪かったわ・・・そろそろ再開せんとマズイな」

「ホンマやで、俺もいい加減完成させんとな」

机に向かって座り直し、筆を手に取る。
対面に座る炎も同じく、筆を取り、描き始めようとしている。
しかし、いざ描き始めようとするも、炎のその手は一向に動く気配が無い。

「炎兄ぃ?」

「ちょっと気を取り直すためにも、一回落ち着かんとアカンな・・・
 厠(かわや)で用を足してくるわ」

「あ、あぁ・・・分かった」

「ほな、ちょっと行ってくるわ」

そう言って炎は立ち上がると、壁に掛けてあった上着を取り、それを羽織った。
それから襖を開けて厠の方へと歩いて行った。

「炎兄ぃも、色々と考えてくれてたんやな・・・」

思わず言葉が漏れる。
それほどに陸は嬉しかった。

兄が、自分のあずかり知らぬところで色々と考えていてくれたこと。
思い、悩み、迷いながらも前に進もうとしてくれていたこと。

自身に投げかけてくれた言葉。

その全てが陸は嬉しかった。

そしてさらに決意を新たにする。
必ず兄に、炎に次代を担う立派な犬剣の名を継がせようと。
弟として、兄を支え、兄のために働いていこうと決心するのだった。


幾分か経ったところで陸はふと疑問に思った。

厠に行った炎が一向に戻ってこないことに。
用を足すだけでそれほど、時間が掛かるだろうか?

幾らなんでも時間が掛かり過ぎていやしないかと、陸は訝しげに思う。

何かイヤな予感がする、陸の直感がそう告げた。
そして、次の瞬間、陸の直感は確信へと変わる。

陸は、壁に掛けてあった上着を取り、それを羽織り、厠へと向かった。
屋内の厠へ行くのに、何故上着を羽織る必要があったのだろう。

陸は部屋を飛び出すと、厠を素通りし、玄関へと向かった。

「あぁー・・・」

うな垂れ、弱々しい声を漏らす。
予感は的中していた。

本来玄関にあるはずの、炎の履き物が無かったのだ。

「あんっの・・・クソ兄貴ぃ!」

額に、これまで以上の大きな青筋が浮かび上がる。

天を仰ぎ、陸は自身の言動を四度、反省する。

なんてことだ、と心の中で呟く。

逃げ出すなどと、露にも思っていなかった。
これまで仕事中に泣き言を漏らすことは多々あった。
仕事をサボりこそすれ、逃げ出すことまでは無かった。

これは兄が逃げ出してしまうことを想定していなかった自分の責任だ。

陸は下駄箱から自分の履き物を引っ張りだすと
それを履き、夏の町へと消えていった兄を探し出すため、飛び出した。

後に、兄諸共仕事を放り出して抜け出したと誤解を受け
父である初代犬剣からこっぴどく叱られることなど
この時の陸はまだ知る由も無かったのである。

やがて、自身の立場を強く自覚し
次代の犬剣を襲名するために、切磋琢磨し
誰もが認める映絵師へと成長していく炎の姿など
この頃からは想像も出来ないであろう。

それはまた、別のお話...



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