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事前感情封印暗示。


1984年5月5日、朝の一番忙しい時間帯にわたしは生まれた。

母にとって第二子となるわたしのお産はとてもスムーズだったそうだ。
「鼻筋の通ったかわいい女の子ですよ」そんな風に助産師さんは母に伝えたかもしれない。「赤ちゃんの時は鼻筋が通っていた」となんだか残念そうに言った母の言葉を覚えている。

母は看護師で、自宅にほど近い市立病院で働いており、その目と鼻の先に兄も弟も通った保育園があった。仕事が忙しくたまにナース服のまま保育園にお迎えに来てくれる母が誇らしくてたまらなかった。

親同士が同じ勤め先だったからだろうか?母と同じ病院につとめる看護師を母に持つ同じ年の幼馴染の男のが2人いて、わたしたちは保育園でも休日でもいつも一緒に遊んだ。
母が忙しい時は、その子の家で一緒にお風呂に入り夕飯を食べて母の迎えを待ち、寂しいと感じたことはあまりなかったように思う。

その頃の記憶で、保育園で母親との別れ際に大泣きする子や、注射を打って泣いている子を見ると、「わたしは大丈夫」という強い認識があったことを覚えている。もしかしたら、そんな子をどこか白い目で見たりする節まであったかもしれない。

なぜだろう?

太陽は高く、園庭から白くて暖かい光が窓に差し込んいる。窓の外の新緑づいた木々や遊具が白い光に当たってキラキラ光っている。今日はいつもと違う。隣には母がいた。
その光景を一緒に見ていた母はわたしに言った。「なんで泣くんだろうね?◯◯(わたしの名前)は大丈夫だよね?」

こんなもんか。痛くないわけじゃなかったけれど、注射は想像していたよりもずっと平気だった。左腕のズキズキと、体内感覚の違和感を何事もないように振る舞った。
多くの子が感情をむき出しにする経験を持つようなことが大概へっちゃらな子になった。わたしはあまり手のかからない「良い子」だったに違いない。
事前感情封印暗示もスムーズに成功。

それは転じて弟が生まれることを知らされた時にもかけることになった。しっかり者のお姉ちゃん。母を困らせてはいけない。母が喜ぶように。
自らかけた暗示だったけれど、母は暗示のかかったわたしの動向については特に関心がなかったようだった。

父や母に、褒められり感謝されたり可愛いねとか言ってもらった記憶が、わたしにはない。
本当の感情を押さえ込まなかったら、それをしてくれただろうか?
それとも、同じだっただろうか?

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