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ペルセポネーへの餞

夢を見た。
午前4時。夜も明けきらない内。海中にいるような薄暗い青が部屋の静寂を告げる。
まだ起きる時間でもないのに意識はしっかりと覚醒していて、高鳴る胸の音が空っぽの体内で激しく拍動している。ベッドサイドに置いていたペットボトルを手に取り、温くなった水を喉に流し込みながら今見た夢を逡巡する。



春の陽が差す公園。頭上には満開の桜、足元には芽吹いたばかりの色鮮やかな花々が咲いていた。遠くにはネモフィラの海が一面に広がっているのが見える。私は花に溢れたその公園を彼と手を繋いで散歩していた。

彼は私の憧れの人。誰とでも仲良くなれる人当たりの良さや、小さなことでも気遣える思慮深さを兼ね備えていて、この人みたいになりたいと心から思えるくらい素敵な方だ。気付いた時には彼に片想いしている自分がいた。
彼はお気に入りのジャケットを羽織って、花びらを降らせる桜の木々に目を細めていた。大人びた雰囲気と目尻に寄った皺が愛らしくて、私はその横顔を見ながら口元を綻ばせていた。その隣で水仙の花々が微笑むように揺れる。
何も会話することもなく、穏やかな風を感じながら色彩豊かな景色を眺めて歩く。繋いだ手に違和感が無いのは、きっとぴったりとはまるくらいに握り慣れてきたからなのか。

ドキドキしながら初めて手を繋いだ日。触れていいのかすらわからず、おそるおそる指を手の甲に当ててみたり。手のひらの汗に気づかれたくなくて、でも、ゴツゴツとした骨と関節の感触にほんの少し嬉しくなったりして。
寒い雪の日にはポケットの中で暖め合っていたのだろうか。かじかんだ指先に、だんだんと彼の温もりが伝わってきて、このまま帰りたくないと強く願ったり。
そんな想いと月日を重ねた結果、お互いの手はひとつに溶け合うように馴染んでいったのかもしれない。

記憶にない作り上げた思い出を拡げて、「そういえばここは夢の中じゃないか」と自覚する。
絵に描いたような風景も、記憶を辿れば、旅行雑誌やミュージックビデオで流れるような映像のつぎはぎでしかない。彼が喋らないのも、私との接点がないのだから会話も何も生まれる訳がないのだ。
都合良くできてしまった偶像。その中で私は一人で彷徨い続けていただけ。この幸福な時間が実は砂糖にまみれた悪夢なのだと思うと無性に虚しくなった。

でも。もしも。
この夢の中で出会えたことに意味を持たせられるのなら。どんな展開も期待もでっち上げられるご都合主義の三文芝居の役者であるのなら。もしくは、この世界線が存在しえる可能性があるなら。

そっと小指と小指を繋げてみる。
願うように。祈るように。
この泡沫の夢が覚めた後も、どこかで彼と繋がっていられることを信じて。
叶う確率なんて無に等しい約束を結ぶ。小さな子どもたちが交わす可愛い約束なんかよりも、重たすぎるし寒すぎる独りよがりなエゴなんてことは重々承知だ。

ジンクスめいた秘密のやりとりが恥ずかしくて、絡めた小指を離す。悲しいけれどこれは夢。目が覚めた後には何も残らない。
これで終わりだと名残惜しく感じた、この瞬間。
彼の小指が私の小指を捕らえる。急なことに思わず顔を彼へと向ける。

前を向いている彼の横顔。
でもその凛とした目は私を見ていて、口元は穏やかな弧を描いている。私が気付いたことを知ると、彼の目は別の方向へと流れて、ほんの少し小指を力強く握られる。
ああ。もう、なんてずるい人なんだろう。夢から覚めれば会えなくなるのに、引き留めるその仕草が彼への恋しさを募らせていく。声も感覚も、確かなものなんて何一つないのに、一瞬の出来事にただただ幸せだけを感じた。

心が満たされていく感覚を最後に夢は途切れた。



そして気が付けば、今。
春の日差しも、舞っていた花びらも、優しい彼もいない。不確かな幸福感だけを夢の中から連れ出してきて目が覚めたのだ。
ときめきが止まなかった胸も、常温になった水を飲んだことで、元の状態へと落ち着きを取り戻してきている。カーテン越しから漏れていた暁の空もゆっくりと白んできた。
部屋を照らす薄青の光も、もう少しすれば日の出と共に消えてしまう。空にも四季があるとするのならば、もうじき薄明の冬が終わって春を告げる東雲が空一面に拡がりを見せる。私の記憶の春も雪のように記憶の片隅に溶けて消えてしまうのだろう。

……まだ春は迎えたくないな。
明るくなる空を見たくなくて、ベッドにまた身を預けて目を瞑る。このまま夢に戻れるなら万々歳だけど、きっとそれは叶わない。
一度瞼を開けて、触れあった小指に視線を落とす。当然握られた感触なんてなく、“強く握られた”と想像で勝手に解釈しただけ。でも目覚めた今もなおその時の光景を鮮やかに覚えている。
あの優しい眼差しを。穏やかな微笑みを。
彼ではない彼にも、私は恋をしていたのだ。

もう少しあの空想の中で過ごしていたかった。
あのまま小指を繋ぎながら公園を散歩していたのかな。それとも手を握り直して、いい歳して何しているんだろうねって笑いあっていたのかな。
きっと今から眠りに就いても、あの舞台にはもう戻れない。幕はもう降ろされてしまったのだ。アンコールを望む声も緞帳に呑まれて消える。

春なんて来なければいいのに。
心の中で悪態を吐いて、再度目を閉じる。きっと次に起きた時はこの思い出も薄れて、一時の恋心も本物の恋心に上塗りされてしまうことだろう。



ペルセポネーへの餞


貴女が天上で春を謳うとき
私は幻の桜の下で幸せを綴ります

貴女が空を恋しがるとき
私はネモフィラの海で彼を待ち続けるのです

寂しくならないよう貴女には水仙を贈りましょう
だから私にはザクロの実を分けておくれ

永遠の真冬を望む
ただただ想うのは貴方だけ


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