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【連載】明けない夜はない コロナ病棟の現場から(3)|それでも、寄り添いたい|渋谷敦志

2020年4月にコロナ専門病棟を取材した、写真家の渋谷敦志さん。取材の後に、ご自身が体感されたこと、そして、2021年1月にふたたび取材に訪れて見たものとは。連載(全3回)の最終回です。

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コロナ病棟取材と精神的ダメージ

 取材の成果はその後、NHKのニュースやドキュメンタリー番組で無事に使われた。最低限の役目を果たした安堵はあった。でも、番組で自分が撮った映像を見るのは思いの外、しんどかった。病棟で知らず知らずに感じていたストレスが、過去の取材で受けた心の古傷と一緒くたになってフラッシュバックしたからだ。

 「どうしよう」と冷や汗が出たのは、画面に何度も表示される自分の名前を見たときだった。医療者への差別や嫌がらせが起きている問題になけなしの一石を投じるには、顔も名前も感情もある「個人」がいることを抽象的な数字や匿名の情報の中に埋没させないことが大事だと考えていた。であるならば、まずは自分が率先して名前を出すのが筋だろう。そう腹をくくっていたので、この副反応は自分でも予想外だった。

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 当時、そのときの心境をSNSに次のように投稿している。

 「救急救命の現場に飛び込んで、災害を目の当たりにした思いがしています。東日本大震災の直後に福島に飛び込んだときの緊張が蘇ります。一晩寝て朝になっても緊張が解けません。体が、指が、震えています。言葉を失う経験はいつも伝えにくい。何も言いたくなくなります。正直もう考えたくないほど。楽観や安心感が手からぼろぼろこぼれ落ちていく。これまでの経験で蓄積した恐怖や虚無までもがぶり返してきて、長い目でものごとを考えられなくなるのです。メンタルをヘルシーに保つことは本当に難しいと今回も痛感します。慣れることはなく、むしろどんどん臆病になっています。コンパッション・ファティーグ。。。」

 コンパッション・ファティーグ。共感の疲労。

 あらためて読むと、精神的に相当まいっていたことがわかる。実際、当時は寝ようと思っても寝つけない日が続いていた。睡眠のあいだも頭の中で自問自答を繰り返していた。夜中に目が覚めるたびに、発症していないだろうかと体温を測った。朝方は特に辛かった。「仕事行くけど、大丈夫」と妻に呼びかけられるが、「あぁ」くらいの言葉しか出ない。日中も体がだるく、頭が働かない。無気力で本を読む気にもならず、コロナの感染状況ばかり気になって、ついテレビやソーシャルメディアを見て、余計に疲れてしまう。気分転換に飲む酒の量は徐々に増えていく。不安からくる抑うつ状態だった。

不安と孤独の中で高まった「免疫力」

 何が不安でそれほどナーバスになっていたのか。それは自分が感染症を広げるスプレッダー(拡散者)になっているのではないかという恐れだった。
感染症の取材はこれまで何度もしてきた。ぼく自身もデング熱、リケッチア、マラリア、肝炎、皮膚病や下痢症など数々の感染症を経験してきた。それでも今回のような抑うつ症状はなかった。身の回りの人や治療してくれた医療者には迷惑をかけたが、病気の痛苦を味わうのは自分だったし、予防を怠ってそうなった自分を責めればよかった。

 新型コロナウイルスはそうはいかない。自分が感染しているかどうかわからない、つまり無症状感染者かもしれないからだ。もし自分が病院に持ち込んだウイルスで院内感染を引き起こしていたら。もし訪問看護師の妻にうつって、万一訪問先の高齢患者を感染させてしまったら。そんなネガティブな想像にどんどん染まっていった。

 番組放送直後には民放のテレビ局からいくつか連絡があった。映像や写真を使いたい、番組出演やコメントをお願いしたいという問い合わせだったが、自分の仕事と名前がそれだけ周知されているとすれば、子どもが通う保育園や学校、妻が勤務する病院や訪問看護ステーションにまで不利益が及ぶのではないかと考えてしまい、気分はさらに沈み込んだ。

 つまり、ぼくの心はすでにしっかりとコロナへの不安に感染してしまっていたというわけだ。

 孤立感もあった。東日本大震災の取材現場と異なり、身近に自分と同じ境遇の仲間がおらず、悩みや葛藤を誰とも共有できなかったのもストレスの一因だったと思う。

 負の感情のループから抜け出せず、一人うつうつとした日々を過ごす中で、いやおうなく脳裏に浮かんでくるのは、コロナ病棟で出会った人たちの顔やまなざしだった。

 病棟のスタッフたちは、つらいからといって、ぼくのように家に引き込もってやり過ごすわけにはいかない。自分のものと比べるべくもない強度の不安や緊張を抱え、今日もベッドサイドに立ち、コロナ患者の治療と看護に最善を尽くしているのだ。

 そんな彼ら彼女らの働く姿をありありと思い起こし、出会いなおす。それはうしろめたくもあり、つらさもともなうことだったが、あちら側とこちら側の境目を心の中で行ったり来たりしながら、想像をめぐらす時間のあいだは、あの人たちとつながっているという感覚を、逆説的だが持つことができた。そんなつながりこそ、ぼくが渇望していたものではなかったか。

 時間がたって思うようになった。あのとき感染した不安はぼくが伝えなければならないいのちの実感であり、思いやりが欠如したものごとに抵抗する免疫力を高めるのに必要な想像感染だったと。

 つらい症状から回復したあとも日本赤十字社と協働しながら、5月中旬には北海道にある知的障害者施設で発生したクラスターを乗り越える活動を取材し、7月初旬には記録的な豪雨に襲われた熊本県の人吉市と球磨村を訪れ、コロナ禍のさなかに起きた複合災害の現場を取材した。

 8月からは新作の写真集『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)の制作と、11月に再開が決まった写真展の準備にとりかかった。コロナ禍で世界が閉塞し、旅に出かけることが難しいいまだからこそ、せめて写真を通じて自分以外の誰かと対面し、人と人とのつながりの大切さにあらためて想いをはせてほしい。そんな願いを込めて、写真展タイトルを『GO TO THE PEOPLES 人びとのただ中へ』と命名した。

 6週間におよんだ写真展は12月14日に終幕した。開催期間中から年の瀬にかけて感染者の増加ペースがじわじわと早まっていった。師走の華やぎやせわしなさを感じることもなく、感染状況の推移を注視し続けた。そして、中国の武漢市で原因不明の肺炎患者の存在が公表されて丸1年となる12月31日の大みそか、都内の新規感染者数は1337人に上り、1日あたり初めて1000人超えを記録する。

 年が明けても感染拡大に歯止めはかからず、医療崩壊の危機が繰り返し叫ばれるようになる。事態がより深刻になり、感染対策の行き詰まりが誰の目にも明らかになっていく中、1月7日、東京都は2447人の感染者を確認する。そしてその日、ようやく重い腰を上げた政府は、1都3県を対象に昨年の春以来2度目の緊急事態を宣言し、13日には11都道府県へと拡大された。

 各地の医療現場が感染拡大の第3波に流されないようにギリギリのところで踏ん張るまっただ中の1月13日、ふたたび苦境に陥っていた武蔵野赤十字病院を訪れた。

2021年1月、ふたたびコロナ病棟へ

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 「いつ割れるかわからないガラスの上を歩いている」

 「オレンジ」と愛称で呼ばれる新型コロナウイルス専用病棟の看護師長、古澤恭子さんは、後輩の看護師たちの精神状態をこう表現した。

 オレンジはもともと小児科病棟だった。去年4月にコロナ病棟に変えられ、中等症から重症の陽性患者を受け入れ始めた。そんなコロナ対応も2、3か月すれば終わると思っていた古澤さんは、「いまは災害時と思って夏くらいまで気力で乗り切ろう」とスタッフに話していた。実際、第一波が沈静化した7月にオレンジは一度閉められた。だが、8月上旬、予想以上に早く来た第2波を受けて、オレンジはまたコロナ病棟に戻った。

 それでも第2波の期間はまだ余力があった。第1波ではわからなかったことが徐々にわかってきた。医療資材は拡充され、スタッフの経験値も上がっていた。家と病院を往復するだけで、外食にも旅行にも行けないストレスはあったが、違う病棟への異動を希望する人はなく、みんなで励まし合って乗り切ろうというポジティブなムードが病棟にはあった。

 そして11月から12月にかけて、第3波が到来する。第1波のときよりも80代以上の基礎疾患を持つ高齢者の割合が増えた。市中感染の広がりで、重症化リスクの高い高齢者のもとへウイルスは着実に忍び込んでいた。入院時にすでに重篤な肺炎症状のある患者が増え、同じ重症患者でも重症度は明らかに高まっていた。

 コロナ患者を診ている病院でクラスターが相次ぎ、首都圏の病床の使用率はどんどん上がっていく。どの病院もコロナ病床の確保に四苦八苦するあいだ、入院先が見つからず、自宅療養中の陽性者が急死するケースも出てきていた。

 そんな年末から年始にかけ、オレンジは病床数を20から38に増やした。東京都の要請だった。それでも、ベッドは徐々に埋まっていく。高齢の患者は入院が長くなりがちだ。年末には1か月以上入院していた患者もいた。

厳しい病棟の日常

 「明らかに第1波よりもいまのほうがきつい」

 看護師歴20年の渋谷美奈子さんは訴える。

 渋谷さんはフィリピンやレバノンなどへの海外派遣の経験もある。そんなベテランでも我慢の限界に近づきつつあると感じていた。

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オレンジ病棟の看護師、渋⾕さん

 第1波のときも病床は埋まってはいた。それでも当時、陽性者は全員入院の対応をしていたこともあり、若い人も入院してきて、手のかからない患者もいた。それがいまでは寝たきりの高齢の感染者がほとんどだ。

 老人ホームなど高齢者施設から入院してきた患者は、普段からヘルパーの生活援助を受けていた人が多い。食事や歯磨き、排泄やおむつ交換にも介助が必要となる。点滴の注射や咳出し、カルテ入力、各種検査、配膳に下膳、薬の投与……。それらの作業を感染防止の面から病室の内と外の二手に分かれて行わなければならない。しかも、全身は不織布のオーバーオール「タイベック」で覆われている。医療用のN95マスクは呼吸が苦しく、頭がくらくらする。トイレに行けず膀胱やお腹が不快になる。夏場には病棟で1時間半作業した看護師が熱中症で倒れたこともあった。いまは1回2時間、1日2、3サイクルでローテーションしているが、年末年始の人手不足のときは、3時間通しでやっても業務が終わらない日もあった。

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 看護以外の仕事もある。病棟に隔離されている患者のために買い物を代行するのだ。まだ20床だったころは、患者のリクエストに合わせて、毎日買い物をしていた。お茶なら何の銘柄がいいか、プリンはクリーム系か、ヨーグルトはフルーツ入りかなど、細かい注文を聞いていたが、次第に余裕がなくなって、1日おきで我慢してもらうようになった。

 人工呼吸器をつけていて動けない重症者ばかりが入院するHCU(高度治療室) と違って、中等症の患者を多く受け持つオレンジだからこそあるもどかしい課題があった。

 例えば、認知症の患者は病棟内を歩き回ることがある。転倒のリスクがあるので目を離すわけにはいかない。そのあいだにナースコールが鳴る。身の回りの世話やトイレのつきそいのあいだに、また別のナースコールが……。大変だからと応援に入ってもらうと、交代要員が不足し、あとの休憩もとれなくなってしまうのだ。

 呼吸苦があるのに酸素マスクを外してしまう患者の対応も悩ましかった。押さえつけてマスクをさせるのは抵抗がある。かといってマスクなしでは、いのちが脅かされる危険な状態になってしまう。酸素レベルがみるみる低下するのを横目に、「お願いだからマスクして」と必死に患者に懇願するのだ。

 「こんなに苦しいのなら殺してくれ」と訴える患者もいたという。コロナに負けないで元気になって家族のもとに帰ってほしい。そう願って懸命のケアで支えているのに、このままベッドの上で安らかにしてくれと言われてしまう。

 オレンジの日常はそんな一筋縄ではいかないものごとであふれていた。

わずかでも看取りを

 取材に入った1月中旬は、治療を続けていた患者が立て続けに亡くなるもっとも厳しい時期だった。

 コロナ前は小児科病棟だったオレンジでは、患者が死ぬことは、ゼロではないが、めったにないことだった。

 「コロナって、すとんって悪くなる人も多いんです。症状悪化のスピードが早くて。30分前まで私患者さんと話ししてたのに、バイタルとったばかりなのに逝ってしまったんですかって。みんな、それにけっこうショックを受けるんです」と渋谷さんが後輩の胸中を推し量る(注:バイタルとは、血圧、脈拍、体温、呼吸数の値)。突然死といえるような最期の瞬間に相次いで直面し、若手看護師たちが精神的にまいっていくのが明らかにわかったという。

 ただでさえ慣れない看取りは、看護師たちの心身を想像以上にすりへらす。その様子を、渋谷さんは表情を曇らせて語った。

 「納体袋にしまうだけじゃないけど、それ以外、何もしてあげられない。家族が立ち会い、患者の手を握りながら、“だんだん呼吸もなくなってきましたね”と声をかけてあげる。好きな洋服があれば着替えさせてあげる。そんなこのあいだまでできたケアができない。このジレンマでみんな、けっこう病んでて。そういう訴えが増えたとき、後輩につらかったねと声をかけてあげたんです。すると、うぁーっと涙して。でも、涙もぬぐえないんですよ、コロナだと」

 行き場のない思いを抱えていたのは師長の古澤さんも同じだった。

 「私もわからない。10年生もわからない。誰にとっても初めての経験で、みんなできないんだよって伝えるようにしている」

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オレンジ病棟の看護師⻑、古澤さん

 古澤さんには忘れられない光景がある。第1波のとき、志村けんさんのように骨壺になるまで家族に会えない事態が実際に病棟で起きたときのことだ。

 「ご遺体は滅菌の袋に包まれてお顔も見えず、ご家族も会えない。亡くなったのは3人の息子を持つお母さんで、中にお母さんが乗っている車を道すがら見送らせてほしいといわれ、出棺する車が何時何分にここを通るからとご家族にお伝えして調整をしたんですが、これでよかったのかと」

 それは家族にとってもつらい別れだったが、患者を看護していたスタッフの胸にも言葉にできない切なさを刻んだ。

 いまでは武蔵野赤十字病院は、防護服に在庫の不安があっても、患者がいよいよ最期を迎えるときには家族に防護服を着てもらい、たとえ5分であってもベッドサイドで面会できる機会を提供している。そのかけがえのない時間は、悲哀や無力感をくぐりぬけ、ガラスのように割れやすい道の上を歩いてきた病棟スタッフたちの切なる願いの結晶でもあった。

追いこまれる看護師たち

 減らない高齢者感染、息の抜けない看護、目前の相次ぐ患者の死……。現場に満ちていく重圧は看護師たちの心身にのしかかり、疲労の色は隠せなくなっていく。

 体にむち打って難局に向き合う中、ついにスタッフの中から複数の感染者が出てしまう。自宅療養や入院で勤務できる看護師が減り、患者の受け入れを減らさざるをえなかった。

 渋谷さんは「世の中にはスーパーに買い物に行っただけで感染する人もいるんだよ。コロナ患者に濃厚に触れる病棟で10か月、一人も出なかったのは奇跡だよ」と後輩を励ました。しかし、「私たちはずっとこんなにがんばってきた」と自分に言い聞かせるほど、胸の内に悔しさがうずまいた。
葛藤や疲れではちきれんばかりに膨らんだ風船に針を刺したのは、患者からの心ない言葉だった。

 患者からすれば、閉鎖病棟の中で隔てられて、不自由を強いられる毎日が長引けばストレスもたまる。でも、だからと言って、「好きなものも買えないなんてどういうことだ」とごねたり、看護師に暴言を投げつけたり、手をあげたりしていいということにはならないはず。居丈高に振る舞う患者は高齢の男性に多かった。「人を選ぶというか。若い人にするんです。ベテランにすると言葉や態度でいなされるので」

 「お前なんか看護師やめちまえ」と怒鳴られた看護師もいた。しかも密室で、一対一で。先輩たちが気づいたときにはぼろぼろ泣いていた。どうしてそんな人をおとしめる言葉を口にできるのか。後輩がやめたら、あなたはどうするんですか。そう言い返したい気持ちを渋谷さんは静かに押し殺した。はりつめた心は、いまにもパチンとはじけそうだった。

 こんな状況はいつまで続くのだろう。先が見通せず、やるせない気持ちになったとき、渋谷さんはカルテの感染経路の履歴につい目がいってしまった。

 患者が「GoToキャンペーン」で温泉に行っていたことや会食していたことを知る。もちろんそれが感染の原因とは一概には言えない。自分も温泉や飲み会が好きだから気持ちはわかる。経済を回すことも大事だ。それもわかるけど、自分たちも我慢しているのにこんな理不尽が続くと、自分は何のために働いているんだろうとどうしようもない気持ちになって、悔しくていまにも叫び出しそうになった。

 「でも、そうやって一人、また一人って休んでしまうと、自分もつらいってなって負の連鎖になってしまう。それだけは防がないと」

それでも、寄り添いたい

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 患者から投げつけられる言葉に心が引き裂かれそうになる。「こんな気持ちで看護をしていていいのだろうか」と痛切なジレンマが身を貫き、押し寄せてくる虚しさにつぶれそうになる。それでも、「やっぱりこの仕事好きかな」と凛とした声で渋谷さんはいい、柔和な顔をほころばせた。「なぜ看護をしているのか」。その答えを教えてくれるのもまた、ケアを差し向ける患者からの言葉だっだ。
 
 オレンジでフル装備の防護服姿で看護にあたっていたとき、患者はバイ菌扱いされるようで嫌な思いをするのではないかと心配になり、「こんな格好でごめんね。誰だかわかんないよね」と謝った。すると、患者は「声でわかる」「目元でわかる」といってくれた。それだけでもやりがいを感じたという。

 別のときは、感染リスクを高めないように患者との接触は最低限でといわれていたが、コロナ禍がこれだけ長くなると、そうも言っていられないとばかりに、患者が痛むというところを手でさすってあげた。「気持ちが楽になった」と声をかけられた。そう言ってくれる気持ちが嬉しかった。そんな触れ合いから生まれた何気ない雑談が、ケアする相手をただの「患者」から、名前も家族も感情もある「個人」へと変え、ほかでもない目の前の「あなた」のために「看護師としてもっとできることはないか」という共感力を回復させていく。
 
 渋谷さんがよく覚えているのは、寝たきりの女性患者の髪の毛を洗ったときのことだ。シャワーに入れず、体拭きでは髪の毛まで洗えない。そこでお湯を入れた紙コップを並べて、頭の下におむつを何重にもひき、お湯を少しずつたらして洗髪してあげた。「ありがとう。こんなことしてもらえるなんて思わなかった」と感謝された。

 そんな患者から贈られる、普段ならそれほど深くは響かなかったかもしれないひと言が、コロナのもとで長く働く看護師の苦労を喜びへと転化させる。その喜びに背中を押された人が、また別のケアが必要な誰かに手を差しのべ、その人の気持ちに寄り添っていく。

 そんな目には見えない喜びのバトンをふいに受け取ってしまったからには、ぼくも自分以外の誰かにリレーしないわけにはいかなくなったのだ。なぜなら、それが共に生きるということだろうと思ったからだ。

 そうなのだ、とここまで書いてきて一つの答えが出た気がした。自分の中でだいぶ機能不全を起こしていた想像力が再起動していくのを感じながら、なぜいまも写真を続けているのかあらためて教えられた気がした。

 こんなふうに書くと、「そんななまやさしいもんじゃないわよ」という鋭いツッコミの声が病棟の看護師から聞こえてきそうだ。そうですよね、とうなずきながら、ふと思い出したのは看護部長の若林さんがぼくの目を見ながらつくづくと語った言葉だ。その言葉をバトンに乗せて、いま一度、現場に返そうと思う。

 「いまはこんなだけど、人はやっぱり寄り添いたいんじゃないかな。近づきたいし、会いたいし。よく言われますが、看護の看という字は手と目でできている。患者に手で触れて、目で見て、心に寄り添っていく。その基本をコロナで新しく発見したのではなく、再認識しているということなんじゃないかな」

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(本稿は、日本赤十字社と武蔵野赤十字病院の協力と理解によって成り立ったものですが、文責は筆者にあり、団体や病院の考えを代表するものではありません)
渋谷 敦志(しぶや あつし)
1975年、大阪生まれ。立命館大学産業社会学部、英国London College of Printing卒業。高校生の時に一ノ瀬泰造の本に出合い、報道写真家を志す。大学在学中に1年間、ブラジルの法律事務所で働きながら本格的に写真を撮り始める。大学卒業直後、ホームレス問題を取材したルポで国境なき医師団主催1999年MSFフォトジャーナリスト賞を受賞。それをきっかけにアフリカ、アジアへの取材を始める。著書に『まなざしが出会う場所へ——越境する写真家として生きる』(新泉社)、『回帰するブラジル』(瀬戸内人)、『希望のダンス——エイズで親をなくしたウガンダの子どもたち』(学研教育出版)。共著に『ファインダー越しの 3.11』(原書房)、『みんなたいせつ——世界人権宣言の絵本』(岩崎書店)、『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)など。JPS展金賞、視点賞などを受賞。


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