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平川克美さんのオープンソースの夢

平川克美さんがふらっと8Factoryの引き戸をがらっと開けたのは、2004年の夏のことだった。8factoryは当時あけていた自分の家兼コミュニティースペースで、八丁堀でのリノベーション、空き家再生のコミュニティの集まる場所で、鍵はいつもあいていた。

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当時の平川さんの肩書きは、文筆家ではなく事業家で、千代田区の公募事業で建物を運営するインキュベーション会社、LINUX CAFEの代表をされていた。平川さんは入ってくるなり、われわれが工事現場で拾ってきたソファにどかっと座り、われわれの活動の詳細を聞いて行った。リノベーションのこと、就職難のこと、地域再生のこと、ジェントリフィケーションのはなし、ドイツ留学の話。平川さんも、内田樹さんとの翻訳会社の話などされたことを記憶している。


扉は半分開いていたが、なんで入ってきただろう。「面白そうなことをしているから」とご自身の感覚を頼りに声をかけていただいた。


聞けば早稲田の理工学部の後輩たちがやっていると親近感を抱かれたのだろう。楽しそうにお話しされていた。

オープンソースの夢

平川さんは、帰り際に秋葉原のLINUX CAFEにご招待してくださった。平川さんは、リナックスというOSについてその可能性を深く信じていた。オープンソースの夢。デファクトスタンダードという言葉を20代の若者におしえてくれたのは、リナックスカフェの地下の会議室だった。その夢をコンセプトに運営されていたリナックスカフェの2階から上はペンギンスタジオという、IT技術者の入居するコワーキングスペースだった。2004年のことだ。時代の先をいっていた。

1階のプロントはリナックスカフェ専用に業態開発されたもの、ということで度肝をぬかれた。
一方で、イノベーションを起こしてお金儲けをすることの大変さもその当時おっしゃっていた。なかの技術者同士は確実に共同作業をしているが、それを中間管理者が間に立ち入ってなにかを統制することはほぼ不可能だということ。若い私は理解できなかったが、なんとなく今ならわかる。

リナックスOSはその後世界を変えた。サーバーなどのOSとしてなくてはならない存在となった。Android OSの元ネタとなり、みんなの手のひらから離れられない存在である。
平川さんのおっしゃる通り、デファクトスタンダードだと思われていたマイクロソフトのOSでは産業用のシステムは運営できず、オープンソースのLINUXが重宝される時代になった。メガジャイアント企業が牛耳るデファクトスタンダードの世界ではなく、オープンソースのだれでもが編集に携われるOSの世界が実際に実現した。提供する側と提供される側が究極的に不確定な仕組み。なんとなく、音楽フェスにに似ている。だれもが客であり、だれもがサービス提供側である。

一方で、インキュベーション施設としてのLINUX CAFEは2011年12月、千代田区との契約が終了し、惜しまれつつ閉店した。行政施設で民間事業を行うことに無理があったのか、民間事業として無理があったのか。今度隣町珈琲に行って聞いてみたい。

平川さんはツイッター等で大変な借金を背負った話をされていたが、その後文筆家として精力的に活動され、盟友内田樹さんとともに論客として欠かさざる存在となっている。(きっと借金もどうにかなっているのだろう)

平川さんの原風景は、東急多摩川線沿線の町工場と住宅が隣り合ったような環境だと本に書かれていた。生活と職業が近接して、職人がそれぞれ手に職をもちつつ大きな組織と技術というオープンプラットフォームで渡り合っていくような原体験をもとに、その幻影を八丁堀のぼくたちの施設に見たのかもしれない。自分の若い時代の限りある時間を投下してきたことによって得られたものは、その時はわからなくても、あとでじわじわくるようだ。

いま、R-Marketという事業を実現させるためにいろいろ考えているが、いろいろと考える。例えばこれまで一部の資本力のある企業しかつかえなかった在庫管理システム。これが民主化し、小商い企業でも使えるようになったらどんなにすてきなことだろうか。資本力より、アイデアや実行力で小さな地域課題を解決できる時代へ。



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