創立10周年-169

リタイア後も人生を楽しむ方法。令和の時代の生き方のお手本

僕が社長を辞めた理由-三縄浩司さん
60歳を前に、自身で立ち上げた4つの会社を譲渡し、悠々自適な生活へ移行するのかと思いきや、今でも日々忙しく国内だけにとどまらず、海外のあちこちを訪ねて歩いている三縄さん。今の肩書きを聞くと「お金はないけど、名刺はたくさん持っている。特にどれがメインってわけでもないんだよね」と謎の発言。起業した経緯と、その後の現在の生活まで、ドラマとその裏側をお聞きしました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

三縄写真

三縄 浩司(みなわ こうじ)さん

元在職 株式会社フジヤマサービス(代表取締役社長)
現在職 株式会社メディア・ケアプラス(取締役)
【略歴】
新卒で印刷会社に入社し、その後会計事務所、不動産デベロッパー、福祉事業とさまざまなジャンルの仕事をした後、
45歳で独立起業。
次々と会社を立ち上げ、4つの会社の社長業をこなす。
56歳で事業売却し、現在、顧問業やアドバイザーなど社長・起業家(または目指す)をサポートする、なんでも屋として日本だけでなく世界各地を駆け巡る生活をしている

20代は転職しながら多くを学んだ時期。
さらに人間関係でも
さまざまなジャンルの人とつながれた

 最初の会社は印刷会社ですが、28歳のときに公認会計事務所に転職しました。新卒で入った会社で接したのは、テレビ局やカード会社等、大企業のマーケティング部や広告宣伝部の担当者といった、いわばサラリーマンが相手。一転、会計事務所では中小企業の創業者や二代目、三代目、医師などいずれも経営者層が相手。仕事は、税務申告はもちろん経理に関することから、労務管理や営業、生命保険の相談まで幅広くやっていました。毎日、深夜まで仕事をすることが多かったけれど、若かったこともあり、さほど苦にはなりませんでした。
 最初は簿記の知識を得るために、簿記学校に週2回夜間に通わされました。会社が社員研修に大変力を注いでくれたこともあり、お金の流れる仕組みや会社をつくること、経営者の心構えなど、会社経営の一連の流れに関する知識を学ぶことができました。4年ほど勤めてから、友人の誘いで大手ゼネコン系の不動産ディベロッパーに転職しました。当時はバブル時で、担当していた医師など経営者の多くが不動産投資をしていたこともあり、不動産に関しても興味をもっていたんです。
 担当していた業務は新規物件の販売に関する契約書の作成や、国土法に関する提出書類の作成、マンションの値付け、広告計画の作成、モデルルーム備品調達など。販売業務は系列の販売会社がやることもあり、仕事は毎日定時の17時まで、完全週休二日制。連日深夜まで仕事をしていた以前の会社とは180度違う環境でした。空いた時間で、以前の会社時代に付き合いのあったデザイナーやカメラマン、ライターなどの会社の経理業務を請け負ったり、歯科医師向けの雑誌に原稿を書いたりしていました。せっかく不動産会社に入ったので、この時に宅建の資格も取得しました。

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 時代はバブルが崩壊。年齢も30歳台半ばに差し掛かり、これから自分は何を専門に食っていくかしっかりと道を決めないといけないと思いました。早期退職の優遇措置もあったので、それを利用して退職。会計事務所時代にできた全国の会計士・税理士のネットワークを通じ、経理業務の代行会社を計画していたところ、知り合いの社長さんから連絡がありました。脱サラしてマンションの一室で福祉用具を扱う会社を起業し、創業当時パート含めて3~4人だった社員も10数名に増え、事務所も移転したといいます。「一緒にやらないか」と誘いを受け、福祉にはまったく興味を持ったことはなかったのですが、「これからは福祉かもしれない」と直感的に感じ、35歳で転職しました。これが今のビジネスドメインの基になっています。
 仕事は個人宅への介護用の電動ベッドや車いすのレンタル、ポータブルトイレや紙おむつ等の販売、浴室やトイレの手すりの取り付けや段差解消といったバリアフリー工事。朝、ハイエースにベッド等を積み込み、一日7~8件の個人宅に伺い納品や撤去といった肉体作業で、最初は筋肉痛に悩まされました。しかし何よりうれしかったのは、伺ったお客様のほとんどから「ありがとう」と言ってもらえたことです。お金をもらっているにもかかわらず、あんなに感謝の言葉をいただけたことは、今までにない経験でした。
会社は拠点も北関東から九州まで増え、従業員数650人、売上も数十億円という大きな会社に成長しました。

30歳半ばでイチ平社員として入社し、そこで役員になり、会社のナンバー2まで上り詰めた三繩さん。ただ、ここで大きな転機が襲い掛かります。

周りに恵まれて45歳での独立

 入社後10年ほどたち、会社は上場に向けて動き始めていました。一方別の企業との業務・資本提携もあり、僕はその会社に福祉用具部門の責任者として出向することになりました。2002年の1月、年末年始の休みが明けて出社すると、社長から「じつは(業務・資本提携している会社と)合併することになって、自分は退任させられる」という話を聞かされました。すでに社内には上場準備室もあり、創業社長も上場する方向で進めたかったのですが、提携先企業の社長の判断で、創業社長の意思に反した方向になったようでした。当時資本の過半数を握られていたこともあり、社長としては選択肢がなかったのです。
 私自身は、このような判断に至った提携先のやり方に納得できず、社長から話を聞いた時点で、退職を心に決めていました。その後、1月末に全社員に社長退任の発表があり、その2週間後には合併発表。合併発表があった日、僕は退職届を提出しました。

スタート

 ▲創業当時の店舗。小さい店舗からのスタートです。

 2000年に介護保険制度が始まり、福祉業界は時代のフォローの風を受けていて、今後も成長することはわかっていました。退職して何をやるかといっても、他にできることもありません。不安はあったものの、迷うことなく起業する道を選びました。会社の設立や、経営するための基本知識、経理に関する知識等は、今までの転職経験で見についていました。しかし、経営の三資源である、ヒト・モノ・金については、どれも十分に持っていませんでした。
 スタート資金として最低1000万円は必要でしたが、自己資金は500万円程度。ありがたいことに、残りは数人の方から快く出資してもらえることになりました。独立の話をすると、「応援しますよ」という人はたくさんいるけれど、将来どんな会社になるか、場合によってはつぶれるかもしれない会社に“貸付金”ではなく、“出資”いう形で援助をしてくれる人はそうはいないものです。ヒトについては、スタート時の4人すべて元の会社から来てくれたメンバーです。先々どうなるかわからない会社であったので、私から誘うことはなかったのですが、皆自分の判断で参加してくれました。

 零細企業の社長=プレイングマネジャー。資本金以外に銀行等からの借入金の返済、仕入れ先への支払い、給料、家賃等とお金の出ていくことは待ったなしです。売り上げは一気に上がることはないので、当然赤字スタートでしたが、1年後には黒字に転換することができました。いろいろな方が気にかけてくれて仕事を紹介してくれたことや、新しいことにも積極的に取り組んでいて、とにかく忙しい毎日でした。

有料老人ホーム入居相談センター


 起業後半年ほどしたころ、営業拠点がそれぞれ違う同業の社長4人で会社を作りました。ケアプランを作るケアマネージャー事務所です。僕たちのサービスを利用してもらえるお客様は、ケアマネージャーからの紹介が多いので、それなら我々もそういうケアマネジャーの会社を持とうという話になったんです。幸い、僕は福祉業界に入ってから、社会福祉士とケアマネージャーの資格も持っていたので、僕がまずケアマネジャーとして動くことになりました。もちろん、僕の営業エリアでのスタートです。ここでの成功パターンを各エリアでも展開させる予定でしたが、4社のうち1社が倒産したことで、当初のシナリオが立ち消え、僕が会社を引き取るカタチになりました。その後、この会社の事務所を川崎にも作りました。次に始めたのは有料老人ホームの紹介センター。この事業を通じて、多くの有料老人ホームとの接点を持つことができました。

追い風の福祉業界で一気に業務拡大!

新店舗

 ちょうどそのころ、日経新聞の日曜版の便利メモっていう福祉用具を紹介するコラムの執筆のオファーを受けました。2週間に1回、コラムを書くことがキッカケとなり、新宿のある百貨店との取引がスタート。のちには百貨店のスタッフに混じり、うちの社員が1名常駐することになりました。日経新聞の全国区版に2週間に1回、コラム掲載され、そこには私の名前だけでなく、会社名や連絡先としての電話番号まで載せてもらえました。PR効果抜群でしたね。
 数年たつと、今度は倒産しそうな同業社のM&Aの話が舞い込んできました。かなりマイナスの資産でしたが、継続的に福祉用具をレンタルしているお客様がいたので、十分価値があると判断しました。融資の関係や、その他の制約もあり、新しく、プライムサービスという会社を設立して運営することにしました。
 4つ目の会社が福祉・医療関係の書籍の出版や編集の会社、メディア・ケアプラスです。以前から業界紙の編集長だった現社長がフリーで活動をしていたこともあり、一緒にやることにしました。最初は私が社長をやっていましたが、他の3社を譲渡したのを機に、実際に編集に携わる彼に社長になってもらいました。
 創立10年のタイミングで、矢口渡駅前にできる新築ビルにテナントとして入ることになり、きれいなオフィスを構えることができました。僕が最後の事業としてやったのは配食事業。主に高齢者宅に昼と夜の食事をお届けする仕事です。こちらはある上場企業関連の会社に協力してもらうことで実現しました。黒字になるには少し時間がかかることは覚悟して始めましたが、さあ、これからという時に、会社の譲渡をしたことで、この事業は泣く泣く手放すことになりました。

宅食

会社としては勢いがつき、ひと区切りできたような印象です。ところがここでまさかの事業承継! さらに、三繩さんのセカンドライフは、まったく違ったスタイルの働き方になっていくのでした。


コンサルタントではなくイチメンバーとして
会社にアドバイスやサポートをしていきたい

 すでに僕は、55歳になっていて、後継者問題で頭を悩ませていました。僕は子どもがいないし、兄弟やかみさんを含めて親族の後継ぎはあり得ません。また、社内からも社長候補は出てきません。前の会社のように大企業に合併されるのは絶対にイヤでした。急ぐ話でもないけれど、後継者を探していたところ、事業譲渡につながる話が出てきました。最初は業務提携や資本提携の案もありましたが、自分としてはゼロか100という気持ちでした。結果的に100%株を譲渡、1年間はやとわれ社長をやり、さらに1年間は顧問。
 そして2015年3月に退任しました。今では福祉業界のM&Aは珍しくないけれど、当時は業界ではちょっとした話題でした。赤字で経営がおかしくなったとか、社長が病気になったとかではなく、黒字の優良企業だったからね。

 そのままリタイアするつもりはなく、すぐに新しい事業を始めようと準備していました。ただ、すぐに商売繁盛というのは難しかったですね。そんなとき、いろいろな方から声がかかり、ビジネスの手伝いをするようになりました。福祉業界のさまざまなサービスにアプローチしたことで多くの人とのつながっていたため、彼らの手持ちカードに“三繩”が入っていて、「最近、暇そうだし、相談してみよう」的な感じのようです。
 ただし、相談にのったり、お手伝いしているのはあくまでも僕の得意とするヘルスケア関連。アドバイザーや顧問、一部業務代行がメインです。「コンサルタントですね」とよく言われますが、僕はコンサルタントというのは何か人ごとのようだし、少し上から目線的なイメージがあるので好きではないんです。関わるのなら、その会社にしっかり入り込んで、中の状況をわかったうえでアドバイスしたい。だから、必ずその会社の名刺を作ってもらい、メンバーの気持ちで接しています。
 声をかけてもらったら、とりあえず会う、行ってみる、話を聞いてみる。アクションを必ず起こすから、今も相変わらず、めちゃくちゃ忙しいですね。日本は高齢化の課題先進国でもあるから、海外からも日本でのノウハウや情報を欲しがっているんです。そういった海外の会社から声がかかることも多いです。僕が動くことで誰かのためになっているのであればうれしい、そんな気持ちでやっています。


「正直、現状動いているものの中で、仕事としてお金をもらっている案件は結構少ないんだよね」と言う三繩さん。でも、こうやって動いているのは楽しいし、生きていく分のお金がもらえれば十分だと言います。「幸せの基準値が低いんだよね(笑)。きったない居酒屋で楽しくお酒が飲めれば十分」なんだとか。お金では測れない信用・信頼という価値は、今後の時代のキーワード。これらを積み重ねていく先に見えてくる、三繩さんの未来。また続きを教えてもらいたいです。


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!