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大企業、エリートコースより、自分が好きな仕事を75歳までやり続けたい

僕が独立した理由-平山 正人さん-
大企業の幹部にいて頼れる上司のような風格の平山さん。ところが、彼が目指すところは、意外にも自分の専門性を高めて現場で働くことだと言います。仕事では、研修講師などを務めていることを知り納得。自分がやりたい仕事にこだわり、マイペースで老後まで仕事をしたいと、穏やかな笑顔で語ります。そんなあこがれる人も多そうな人生についてお聞きしました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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平山 正人(ひらやま まさひと)さん

株式会社スタイルブランディング® 代表取締役
1969年生まれ 立教大学経済学部経営学科
株式会社スタイルブランディング®️ 代表取締役
株式会社HRアソシエ取締役
米国CCEInc.認定GCDF-Japanキャリアカウンセラー
国家資格キャリアコンサルタント
富士通株式会社/株式会社カッシーナジャパン/株式会社ヒューマンホールディングス/株式会社パソナキャレント各社の人事・管理部門にて、採用・育成・制度・経営企画の業務に従事。
2006年に株式会社スタイルブランディング®設立。

大学時代が人生の華だったかもしれないね(笑)
体育会本部のトップとして活動

 小さいころは、その当時の男の子たちと変わらず、野球の選手になりたいと思っていました。でも、中学では、リトルリーグ上がりの子とかがいてレベルがまったく違ったんです。ちょうどそのころ、『スクールウォーズ』ってテレビが流行っていて、生徒役が平山って名前だったので「オレじゃん!」と思い、高校ではラグビーを始めました。
 付属の高校だったため大学はそのまま進み、当時新しかった “ローラーホッケー”というスポーツを始めました。大学4年生のときには、ホッケーのプレイヤーを続けながら、体育会の50のクラブを束ねる体育会本部のトップをやってたりもしました。今思うとこのときがいちばん輝いていた時期かもしれません(笑)。

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 就職活動を始める前にぼんやりと将来について考えていたのは、1990年当時、パソコンやコンピュータは一般的ではなかったので、将来性を考えてIBMみたいな会社に入ってビジネスマンになるか、インテリアデザイナーになっておしゃれなカフェバーとかを作るか? ってことでした。
 もともと小さいころから模様替えや家の間取りのチラシを見たりするのが好きで、建築系には興味があったんです。母が生け花教室をやってたんですが、残ったお花をどこに飾るのか? を考えるのが僕の仕事だったので、そのあたりも影響していたのかもしれませんね。

 とはいえ、僕たちはぎりぎりバブルの恩恵にあずかれた時代だったこともあって、いろんな企業を受けて内定をたくさんもらうことができました。就職試験を受ける際の僕の方針は、業界2番手を選択することでした。2番手の企業を自分の力で日本一、世界一にしたい! そんなことを真剣に思っていたし、実際に面接でも語っていました。
 最後に受けた富士通の面接官の方が「キミを採用することを決めたから、次の面接には他の内定を全部けってきてほしい」旨を言われました。そういえば、以前にIBMを候補に考えたことがあったことを思い出し、コンピュータ系で2番手が富士通だったので、ここで実力を発揮しようと決めました。

イケイケの時代背景と、学生時代の実績とが、平山さんの自信を後押ししていたのでしょう。企業側からも期待の新人として入社したのだと思います。ところが、平山さんは、意外な理由で大企業をあとにすることになります。

新人での人事部配属というエリートコース
ところが、
インテリアコーディネーターの夢も忘れられず。。。

 入社して多くの新人は営業に配属されると聞いていたので、どこの営業所になるのかと思っていたら、まさかの人事部。あのときの面接官が上司だったんです。
 富士通で数年働いているうちに、ふともうひとつの夢だった「インテリアはどうするんだ?」という声が聞こえてきて、あの時の思いをこのままにして生涯の仕事を決められるのか、と思い、まずはこの業界のことを知ってみようと思いました。インテリアコーディネーターの学校に、夜間や土日に通いだしました。

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 そうすると今度は自分の実力を試したくなってしまい、会社をやめてインテリア業界へ転職。ただ、デザイナーとしての才能はないことを実感し、3年ちょっと務めてから、今度はHR専門の会社に移りました。

 ここでは上場するためのHR関連の整備を中心にやっていたのですが、3年半ほど勤めているうちにキャリアコンサルタントの資格も取得して、完全にHR業界のスキルを身に着けました。人材紹介についてのしくみも知りたいと思い、人材紹介会社に転職。コンサルタント業務を中心に行う予定だったのですが、人手不足のため、人事部として採用や人事など管理部門全体のマネジメントを担うようになりました。

 キャリア的には出世しているほうだったと思いますが、マネジメントの仕事は調整面が多く、自分が培ってきた専門性のキャリアを使う機会がありません。現場が好きなので、仕事に対しての喜びが感じられなくなってきてしまいました。
 ちょうどそのときドラッカーの本を読み「あなたは何で覚えられるのか」という問いに対して、答えられる仕事がしたいって強く思ったことを覚えています。あとは忙しすぎて、自分の時間の使い方を、人に決められるような生活はいやだなって思ったりもしました。自分の手綱は自分で握っていたい、そういう気持ちで独立を考え始めます。

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大変さや現実の厳しさがある一方、
70歳過ぎても現役でいられる自由を得た

 2006年37歳のときに独立を決意しました。PR会社とWeb製作会社に依頼して、自分を売り出すためのHPを作る準備を始めました。ところがダメ出しの嵐。打ち合わせしたあと「で、あなたは結局何ができるんですか?」って質問されちゃったんです。独立して本当に仕事が来るのか、不安で、「あれもこれもできる」「こんなこともやりたい」が多すぎて、的が絞られていないという指摘でした。

 そこで、半年くらいは稼がなくてもOKと決めて、個人向けのキャリアカウンセリングを始めました。今よりずっとニッチな市場で、自分のやりたいことにも合っていると思ったものの、収支が合わず、これだけで生きていくことは難しいとわかりました。
 そこで、まずはやりたいことの前に、自分ができることでしっかり稼ぎ、そのうえでやりたいことをやろう、という考えになりました。自分に苦もなくできることは、採用支援です。いくつかの会社の採用支援をやるようになり、やっと会社が安定してきたのは2~3年たったころだと思います。もちろん、2009年のリーマンショック後など、しばらく厳しい時期もありました。

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 知り合いが会社を立ち上げるための採用関係の手伝いをしたり、今はあれやこれやを手放して、自分のやりたいことに再び集中させているところです。研修講師の仕事は定期的にいただけるようになったけど、ライフワークとして個別のカウンセリングも頼ってくる人がいる以上、続けていきたいと思っています。独自のコンテンツをしっかり使って自分らしさを世の中に発信していきたいと思っています。
 世の中は適者生存だって感覚が強くあります。70~75歳くらいまで現役でいたいので、心技体がそろっていて、ずっと必要とされる人間でありたいって思っています。

会社でのトップを目指すことではなく、独立の道を選んだ平山さん。決して平たんな道ではなかったと言います。それでも、定年を気にすることもなく、働けるスキルを身に着け、今ではマイペースで仕事をする楽しさを感じているのだそうです。



下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!