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新しい編集者としてのスタイルを実践。コラボ企画やコミュニティづくりのお手本

僕が社長になった理由-宮脇 淳さん-
2019年で15周年を迎え、コワーキングスペースにスナック、多くのイベントなど、個性的な編集プロダクションを運営している宮脇さん。「小さいころの夢は野球選手だったけどプロを目指すほどでもなかった。あとは読書が好きで、中学時代に司馬遼太郎を全部読みました」子ども時代のことをそう語ります。ご実家が建具屋さんだったため、木工で椅子や本棚を作ったりラジコンなどの機械ものをイジったりするのが好きだったそう。そんな幼少期の思い出が、宮脇さんの人生のあちこちに顔を出します。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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宮脇 淳(みやわき あつし)さん

有限会社ノオト 代表取締役社長
東京都立大学工学部機械工学科卒。
大学5年生の春、インターネットジャーナル『ワイアード』編集部にアルバイト勤務
1年後、編集者として正式に勤務するも、半年後に運営会社が解散。
クラブカルチャー誌『floor』の編集を経て、フリーの編集者&ライターに転身。
5年半後、個人事業主の限界を感じて有限会社ノオトを設立。
2004年会社設立
2007年品川経済新聞創刊
2010年リヤカーブックス始動、1年後に終了
2013年Twitterメディア「トゥギャッチ」創刊
    和歌山経済新聞創刊
2014年コワーキングスペース「CONTENTZ」開設
2016年コワーキングスナック「CONTENTZ分室」オープン
2018年コワーキングスタジオ「Contentz」増床

大学時代にバイトした雑誌社でそのまま編集者に
その後フリー編集者としての20代を過ごす

 高校は進学校で、野球にのめり込んでいたこともあって勉強はおろそかにしていたものの、国語だけは得意でした。高2の選択で文系に進むも、途中で3年で理系に変更しました。どうしても好きな機械をいじりたくなり、車関係の仕事に行くためには工学部に行く必要があると思ったんです。手先は器用で学校の技術の授業でモノづくりするのも得意だったんですよね。そこは家系かもしれません。
 で、周りの反対を押し切って理転したものの、結局2浪して夜間大学に入りました。昼間は書店の倉庫でデータベースを作る仕事をしていましたし、学校でもマッキントッシュを早々に導入していたので、コンピュータに触れる機会が多くあった大学時代でした。

 うちの夜間部は5年制で、大学5年の春からインターネットジャーナル誌「ワイアード」でバイトを始めました。理系とはいえ、本好きだったからか、文章を作るのは得意だったんですよね。一応、普通に就職活動をしてSE職で内定をいただいたのですが、編集長に編集部に残れと言われ、迷わず編集者の道を選びました。直感的にこれからはインターネットの時代を感じていたので。さすがに親はがっかりしていたようですね。

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 ただ、業務委託契約だったので社会保障もないし、もらえる月給もたかが知れていました。そんな状況に追い打ちをかけるように、卒業半年後に会社が倒産。運良く紹介してもらったクラブカルチャーを扱う雑誌社に転職できましたが、ここも半年たたずに解散しました。
 再就職活動も考えましたが、思い切ってフリーライターとして独立することに。当初は音楽やPC関連の仕事をいただくことが多かったですね。

 紙媒体以外では、ネットのリンク集を作る仕事もしていました。まだグーグルのない時代で、検索という機能が今ほど行き届いていなかったんです。多くの人が情報を比較するためには、リンク集のページを見てそれぞれのHPをチェックしていましたから。この仕事は割がよかったので、紙媒体のライター仕事が多少不安定でもやっていけましたね。

 5年半ほど個人事業主を続けましたが、広告代理店の友人から「ウェブ広告関連の仕事を頼みたいんだけど、フリーランスだと契約できないだよね」と言われ、2004年に有限会社を設立。そこで一気にネットコンテンツ制作の仕事が次々と舞い込みました。さらにちょうどその年、R25の創刊準備号から外部編集者として仕事させてもらえることになり、この看板仕事のおかげでさらに仕事の話をいただくようになったというのはありますね。R25がウェブ版を作る際には、2年ほどR25編集部へネットディレクターとして出向していた時代もありました。

少し会社が大きくなってきたところで、自分たちのメディアづくりがはじまります。受託という待ちの仕事だけでなく、自分たちの自由にできるものが欲しかったのだそう。それが『品川経済新聞』。日本各地に展開しているローカル情報を取り扱うメディア『みんなの経済新聞ネットワーク』の品川版です。ここから、宮脇さんの攻めの経営が始まります。

リアカー書店、コワーキングスペース、スナック…
編集プロダクションとは思えない挑戦の数々

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 『品川経済新聞』をスタートするにあたって、当然、収益化を考えていました。でも、ローカルメディアに広告を出したがる企業はほとんどなく、そもそも営業がいない会社なので、営業を全然できておらず…(笑)。そこで、新人たちが取材して文を書く“トレーニングメディア”にしようと割り切りました。未経験者でも、品川経済新聞で経験を積めば、ネタの探し方、取材アポのとり方、取材での質問や撮影、原稿の書き方、編集・校正、CMSセットなど、一通り仕事ができるようになりますから。

 次の挑戦は『リヤカーブックス』です。本が売れなくなった時代にどうしたらいいのか? という話から、売り方はもちろん、リアルとネットで本の認知度を上げることが大事だろうと考え、チンドン屋さんみたいに本を売り歩くリヤカーの本屋を立ち上げました。リヤカーを買って、ちょうど広告代理店をリストラされた友人を店長に迎え入れました。
 いろんなコラボを行いましたが、印象に残っているのは『もしドラ』(もし野球部の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら)のプロモーションですね。リアル女子高生を10人くらいアルバイトで雇い、品川駅周辺で本を売り歩きました。リアカーブックスは新聞や雑誌、ネットメディアなどあちこちで取り上げられたのですが、翌年に東日本大震災が起こったこともあり、ちょうど1年で店をたたむことにしました。メディアの方々からはおもしろがってもらえたので、知り合いが増えましたね。アイデアを実現することがいかに大事かを学んだ経験でした。

 その後、事務所の引っ越しを考えたときに、五反田に少し広めの物件が見つかったので、オフィスにコワーキングスペースを併設する形でスタートしました。新しい働き方の提案ができたらいいなと思うようになったんです。5年前はまだコワーキングスペース自体多くはなく、さらに編プロが運営しているようなケースはなかったので、フリーランスの編集やライターが集まる場が作れたらおもしろいな、と。ライターがたくさん集まれば、すぐ仕事の依頼もできそうですし、うまくいけば利用料で賃料はまかなえるという算段でした。開始3年くらいでその目標はほぼ達成できて、ここ1〜2年は五反田がITベンチャーの街になってきたという変化もあり、エンジニアが増えています。とにかく変化が激しいですね。

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 さらにコワーキングスペース開設の2年後、その分室としてすぐ近くの飲食ビルに『コワーキングスナック』をオープンさせました。ライターさんが曜日代わりでチーママをやっています。Wi-Fiと電源はあるけど、禁煙でカラオケはありません。これはコワーキングスペースとも連動させて、コミュニティ要素を生かせる場として機能させたいと考えたからです。

「僕は場を作ること、そしてコミュニティを作ることも編集だと思っています」と力強く語る宮脇さん。編集者としてのプライドを感じさせます。

コンテンツ作りへの想いと他社との差別化
作ったものを出し惜しみしないでシェアする感覚

 2015年には、クリエイターが集まるリアルイベント「#ライター交流会」をスタートさせました。五反田での開催は、毎回30〜60人くらいコンスタントに集まり、仲間を増やしています。トークセッションの様子を参加者がツイッターで実況して、何度もトレンド入りしました。ただ、「東京だと行けない」という声も多く、全国いろんな地域にライターさんが点在している事がわかったので、福岡、和歌山、秋田、神戸、長野、高知…と、都市の規模に関わらず、いろんな地域に出向いて開催するようになりました。これに加えて、#ライター交流会のロゴを一般開放し、各地で自由にイベントを開いてもらうようにもしています。大阪はもう4回くらい地元のクリエイターさんたち主催で開催していますね。
 #ライター交流会の参加費は2000〜3000円程度に設定しているので、イベントそのもので収益が出るわけではありません。ただ、ゆるーいコミュニティみたいなものができてきて、ここのネットワークを通じて仕事がうまく循環していたりもするので、そこはいいですよね。他の編プロとの圧倒的な差別化ができていると思っています。

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 会社としてはこの15年、なんとか生き残れたかなぁという感じです。目の前の仕事を1つ1つ取り組んで、少しずつ積み上げてきた。一番苦しかった時期は、リーマンショック後の2年でしょうか。広告の仕事が減った影響で、売り上げがガクンと落ちました。そこから学んだのは原点回帰で、広告の仕事に頼るのではなく、あくまで編集の仕事を軸足にしよう、と。2012年ごろからコンテンツマーケティングが注目されるようになり、そのころからノオトの仕事はオウンドメディアの企画・運営・コンテンツ制作が中心になりました。
 さらに、お金をしっかり稼ぐ仕事と、お金よりもノオトのブランディングを高める仕事を明確に分けるよう意識するようになりました。稼ぐ・稼げない仕事の売り上げ割合は9:1くらいのはずなんですが、労力的には5:5くらい。稼げない仕事に大きな労力をかけすぎているという、ちょっとおかしな状況ではあります(笑)。

 こらから取り組みたい仕事は、ウェブメディアが正しく儲かる仕組みづくりです。今のウェブメディアは、まじめにコツコツと優良なコンテンツを作っている人にちゃんとお金が回っていないんです。炎上商法によってバズってPVを稼いだり、SEOトレンドブログのような内容のないコンテンツがSEOで上位表示されたり、小賢しい人ほど儲かってしまうのは健全とは言い難いでしょう。そんなインターネット社会は誰のためにもなりません。よいコンテンツの作り手を守るために、ウェブ広告を再編集していきたいと考えています。

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ご実家の話を聞くと、「子どものころ、本家から家業を継いでほしいと言われていて、それが嫌で東京に出てきたのに、結局は自分で小さな会社を立ち上げて、同じような職人的な仕事に落ち着いちゃったなぁ」と苦笑いする宮脇さん。とはいえ、多くの人たちを集めたコミュニティ運営や、メイン事業以外への展開などは時代の先端を感じさせます。そして何よりも“コンテンツ”への愛情が深い。クリエイターがつくるコンテンツという知的財産の価値を上げたいという思いは、私も共感しかありません。


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!