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「この1戦」を夢中で戦う。 監督・村主博正【Voice】

今年新たに就任した村主博正監督。Jリーグ昇格1年目のチームを託されたモチベーターに、今の思いをうかがいます。

▼プロフィール
すぐり・ひろまさ

1976年生まれ。現役時代は磐田東高から本田技研工業→コンサドーレ札幌→ヴェルディ川崎→大宮アルディージャ→サガン鳥栖→アビスパ福岡→サガン鳥栖。引退後は浜松開誠館高→FC岐阜→FC町田ゼルビア→松本山雅FCにてコーチを務める。2022年よりいわきFC監督

■いわきFCは「相手が嫌がることを愚直にやり続けられる」チーム。

 昨年までの5年間チームを率いた田村雄三現スポーツディレクターの後を継ぎ、今季から就任した村主博正監督。まずは、ここまでチームを指導してみての感想から、話をうかがっていきます。
 
「全員が前向きに取り組んでおり、大きな期待を寄せています。トレーニングを見る限り、決してサッカーが上手い選手ばかりがそろっているとは言えない。あれもやっていい、これもやっていいと言った時、それを解釈してできる器用な選手は正直少ない。でも、J3で戦っていくポテンシャルは十分ある。

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 いわきFCがJの他チームと異なる点は、明確なビジョンと言葉があり、それが具体的なプレースタイルにまで落とし込まれている点です。いわき市そして双葉郡の復興を支援するチームであり、その上で「魂の息吹くフットボール」「日本のフィジカルスタンダードを変える」というスローガンがある。チームがその考えに沿った選手を獲得しているから、選手とスタッフが同じ方向を向いて進んでいる。

 だから、例えば今のチームに『僕は筋トレをしません』という選手は一人もいないし、そういう選手が入ってくることはない。これがいわきFCの強み。Jリーグの他のチームでは、決して当たり前のことではありません」

 そんな村主監督のいわきFCの"初遭遇"は、かつて相馬直樹監督のもと、FC町田ゼルビアのコーチをしていた時。「いわきドリームチャレンジ2019」でいわきFCパークに遠征し、一線を交えました。両チームは真っ向勝負を繰り広げ、結果は2対1でいわきFCの勝利。村主監督はその時からずっと、いわきFCがどんな環境でどんなことに取り組んでいるのか、興味を持ち続けていたそうです。
 
「当時の町田といわきFCは展開するサッカーに似た部分があり『前に行く』という点でシンパシーを覚えていました。相馬監督は大倉社長の早稲田の4年-1年の関係の後輩ですから、よく理解できます。『魂の息吹くフットボール』というプレースタイル、そして『日本のフィジカルスタンダードを変える』というスローガンも知っていたし、いわきFCは早晩Jリーグの舞台に上がってくるとも思っていました。

 当時の印象は『相手が嫌がることを愚直にやり続けるチーム』。『これが我々のサッカーだ』というものを徹底的に貫き通す。その姿勢は本当にすごいと思いました。

 この1月から選手達を指導して、印象に変わりはありません。大倉社長と田村(雄三)君という強い信念を持つ二人が築き上げたチームですから、当然ですよね。ストレングストレーニングについても、まったく抵抗はありません。そもそも自分自身が筋トレで生き延びてきた選手だったので、知識も理解も、興味もあるつもりです」

■本田の3年間がなかったら。今の自分はない。

 村主監督は静岡県袋井市出身。磐田東高を卒業後、1995年に当時ジャパンフットボールリーグの本田技研工業サッカー部(現在のHonda FC)に加入。まずは社員選手として、仕事をしながらサッカーに打ち込みました。
 
「チームのある浜松は、私にとってほぼ地元。当時監督だった大沢隆さんに『将来がまだわからないから、まずはしっかりと社員で頑張りなさい。試合に出られるようになったら、プロ契約は考えるから』と言っていただき、まずは社員として入りました。

 会社では農業機器の製造に携わっていました。とはいえ当時、チームはプロ化を目指していたので仕事量は少なく、出勤は年間1カ月半から2カ月程度。基本的にはサッカーばかりでした。

 でも2年間働いたことは、本当に大きかった。多くの皆さんのお力添えがあって、サッカー選手という3食昼寝つきの仕事をさせていただいている。周囲の方達が、自分達が思い切りサッカーをできる環境を整えて下さっている。そのことへの感謝の気持ちを持つことができました」

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 社員選手として2年間プレーした後は。プロ契約選手として1年間プレーしました。

「当時の本田はプロ契約選手と社員選手が混在。選手の6割ぐらいがプロ契約で4割が社員という構成でした。外国人選手としてロペスさん(呂比須ワグナー:元日本代表)、プロ契約で安間貴義さん(現・FC東京コーチ)、長澤徹さん(現・京都サンガF.C.ヘッドコーチ)、青嶋文明さん(現・浜松開誠館中学・高校サッカー部監督)などがおられて、チームはJリーグ加入を想定した本格的な強化を行っていました。

 社員選手も含めた多くの皆さんに、サッカー選手としての基礎を学びました。本田の3年間がなかったら。今の僕はない。そう断言できます。本田は社会人として、そしてプロとしての基礎を学んだ場所です。

『決して自分中心ではなく、チームのために何ができるかを常に考えろ』。チームでは幾度となくそう言われました。

 FWで入団したのですが『自分だけ目立てばいい』『攻撃だけやっていればいい』という態度が練習や試合で出てしまった時は、めちゃくちゃ怒られました。ハードワークすること、そして人のために走ることの大切さ、本気でサッカーをすること、本気で物事を言い合うこと、本気でトレーニングすることの大切さを、毎日の練習から叩き込まれました」

■所属チームのない苦しい日々。振る舞いや心の持ち方が変わった。

 本田で3年プレーした後、1998年にコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)に移籍。札幌では岡田武史監督(現在はFC今治の運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役)のもとでプレーしました。

「岡田さんは『俺達の目標は勝つことだから みんなが楽しいと思うサッカーはしない。勝つことを目標にしているのだから、そこに向かえる選手だけ残ってくれ。無理なら他のチームに行ってもいい。多少つまらなくても、俺の考えるサッカーをやってくれる選手だけ残ってくれ』とおっしゃっていました。

 でも、岡田さんのサッカーをつまらないと言う選手は誰もいなかった。みんなが岡田さんと仲間を信じて戦い、それをJ1復帰という結果につなげることができた。岡田さんの型にはめない指導スタイルや言動と行動、そして、常に自分に足りないものを探して勉強し続けている姿勢には、大きな感銘を受けましたね」

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 2000年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)、2001年に大宮アルディージャとチームを渡り歩きました。大宮時代から、徐々に苦しい時間が始まっていきます。
 
「現役時代は、試合に出られない期間の方が長かった。大宮にいた24歳~26歳ぐらいから徐々に出場機会が減ってきました。当時のチームのサッカーになじめなかった面はありましたが、結局、力がなかったということです。

 本当にいい選手はどこに行っても試合に出られる。だから、力不足という現実を受け入れながらも前に進んでいくしかない。出られないなら、どうやって毎日を過ごすのか。どんな心でいるべきか。今の立場で、どうすればチームにパワーを与えられるか。現役生活の後半は、そればかりを考えていました」

 大宮との契約満了後、移籍先が決まらずに時間が過ぎていきました。所属チームがない状態で、パラグアイに武者修行へ。この経験が心を大きく変えました。

「半年間、所属先がなかったんですよ。パラグアイの厳しい環境を経験して、サッカー選手でいられることの喜びを痛感しました。滞在中にサガン鳥栖からオファーがあって帰国したのですが、何も希望がなかったところにもう一度サッカーをする機会をいただくことができ、本当にうれしかった。

 その後、引退するまで4年半プレーしました。一度ギリギリの所まで落ちてから再びプレーできたことには、感謝しかありません。所属チームのない苦しい半年があったからこそ、人への振る舞いや心の持ち方が変わり、何より、好きなサッカーをできる日常をありがたく感じられた。この半年間が自分を大きく変えましたね」

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 現役を引退したのは2007年。本田時代に公私ともに親交のあった浜松開誠館高校サッカー部・青嶋文明監督から誘いを受け、2008年よりコーチに就任します。

「本田時代『30歳までプロサッカー選手を続けられたら、お前を認めてやる』と言われていたことが、ずっと心に残っていたんです。そのため、どうにか31歳までやり切りました。この時すでに指導者になりたい気持ちを持っていたので、戦力外との通告を受けた時、すぐに気持ちを切り替えることができました。

 学校なので、プロサッカー選手の感覚は通用しません。久しぶりの社会人生活が、結果として素晴らしいリハビリになりました。ずっとサッカーしかやってこなかった自分が社会の一員に戻れた。さまざまな面で、自分を正してもらいましたね。

 その後2012年からFC岐阜、2014年からFC町田ゼルビアで、コーチとヘッドコーチを務めました。指導者として最も印象深いのはやはり、町田時代に6年間ずっと一緒にやっていた相馬さん。選手のためにハードワークする姿や、選手が迷った時に『これをやるんだ』と言って引っ張っていくリーダーシップ、そして裏表のない姿に、大きな影響を受けました」

■この1回のトレーニング、この1試合にすべてを出し尽くす。

 町田のヘッドコーチを務めていた2018年度にS級コーチ養成講習会を修了。2020年から松本山雅FCのコーチに就任して2シーズンを過ごし、2021年12月、いわきFCの監督に就任。いわきFCで、監督としての記念すべき第一歩を踏み出しました。

「先ほども言いましたが、いわきFCの選手の強みは同じことを徹底できること。確かに相手チームからすると、いわきFCの戦い方を分析し、戦術で対応するのはそれほど難しくないかもしれない。でも、同じ戦い方を90分間、これまで経験したことのない強度で続けられたらどうでしょう。試合終盤になって勢いが落ちるどころか、さらに強いインテンシティで攻め込んできたら、耐え切れるでしょうか。

 相手が『何だこいつら…まだやってくるのか』というメンタルになっても、徹底的に前に出続け、最後は心を折る。このチームはそんな戦いができると思っています。我々はJ3で18番目。リーグを圧倒できる力はありませんが、この強みがあれば絶対に戦える」

 村主監督はシーズンイン当初、あえてキャプテンを決めませんでした。「シーズンの流れの中で、試合の中で、ギリギリの極限状態になった時、闘えるのはどの選手なのかを時間をかけて見極めたかった」からだそうです。

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 1月の鍛錬期そして2月の千葉での合宿を経て選んだのは、キャプテンに4年目のMF山下優人、副キャプテンに2年目のMF嵯峨理久と4年目のMF日高大。今年のスローガンは「BE TOUGH 立ち止まるな、成長を、挑戦を貫け」。チームはこの3人を軸として、全員がTOUGHに、謙虚に貪欲に戦っていきます。

「今年はJ2から4チームが降格し、J3はかつてない激しい戦いになる。JFLとは環境も変わり、5000名から1万名の相手チームサポーターにブーイングされるような厳しいアウェーゲームもあるでしょう。そんな状況でも、選手達を夢中でプレーさせてあげたい。熱い思いを大観衆の前で思い切りぶつけることができれば、相手チームのファンにも必ず伝わる。

 不安よりも楽しみが大きいですね。幸い今年のチームには、大舞台で戦う度胸のある選手が多くそろっている。彼らが夢中で戦うことのできる空気を作ってあげることが、我々コーチ陣の役目だと思っています。

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 メディアの方々によく『勝ち点はどれぐらいを目指していますか?』と聞かれます。答えはありません。勝ち点とは、1試合1試合を夢中になって戦った先にあるものだと考えています。だから選手達には『この1回のトレーニング、この1試合にすべてを出し尽くそう』といつも伝えています。

 クラブのミッションからわかる通り、いわきFCは『ただ勝てばいい』クラブではありません。倒れない、止まらない『魂の息吹くフットボール』を見せることで、ファンの皆様に勇気を与え、ホームタウンの復興の一助になることを目指している。

 だからこそ求められるのは、最後まで諦めずに戦う姿勢です。例え大差で負けていても立ち上がり、足を止めず、最後の1秒まで点を取りに行く。その思いをどんな試合でも示したい。そして諦めずに戦った先に、きっと勝利がある。そう信じています」

▼村主監督をもっとよく知るQ&A
Q1:今、いわきFC以外で注目しているチームや指導者は?
A1:いわきFCの縦に速いサッカーに近いスタイルで参考として見ているのはRBライプツィヒ、レッドブル・ザルツブルグなどですね。注目している指導者はやはり相馬さんです。今後どこに行っても結果を出す人だと思っています。

Q2:いわきの街の印象はどうですか
A2:温泉があって海もあって、本当にいいですね。こんなにいい土地があるんだ、と初めて知りました。海に近くて暖かいという意味では、浜松とも少し似ていますね。スポンサーの皆様も温かい方ばかり。皆さんの力で今この場に立たせてもらっている。そのことへの感謝を忘れないようにしたいです。

Q3:単身赴任ですか?
A3:そうです。家族は浜松にいます。妻の実家が福島県にあるので、きっとこれから来る機会が増えると思います。

Q4:気晴らしや趣味は何ですか?
A4:大倉社長、穂苅トレーナー、田村スポーツディレクターによる「筋トレ部」がありまして、朝7時から活動に参加しています。「僕らも選手の気持ちになってみよう」ということで、今日もやっていました。「筋肉と会話する」感覚は選手と一緒。自分の身体で実験してみないとわからないこともあるので、毎朝やっていますよ。

次回もいわきFCの選手・スタッフの熱いVoiceをお届けします。お楽しみに!
 
(終わり)
 

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