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「クラブビジョン」と「田村雄三」【ROOM -いわきFC社長・大倉智の論説】

いわきFCを運営する株式会社いわきスポーツクラブ代表取締役・大倉智のコラム。今回はチームのJFL優勝そしてJ3昇格を牽引した、田村雄三元監督について語ります。

▼プロフィール
おおくら・さとし

1969 年、神奈川県川崎市出身。東京・暁星高で全国高校選手権に出場、早稲田大で全日本大学選手権優勝。日立製作所(柏レイソル)、ジュビロ磐田、ブランメル仙台、米国ジャクソンビルでプレーし、1998年に現役引退。引退後はスペインのヨハン・クライフ国際大学でスポーツマーケティングを学び、セレッソ大阪でチーム統括ディレクター、湘南ベルマーレで社長を務めた。2015年12月、株式会社いわきスポーツクラブ代表取締役就任。

■12年前とオーバーラップする昇格の光景。

J3昇格そしてJFL優勝という目標を達成した2021年のシーズンが終わった。ファンの皆様やスポンサーの皆様、関係者の皆様方に厚く御礼申し上げます。

今年を振り返り最も印象深かったのが、JヴィレッジスタジアムでJ3昇格圏内入りを決めた11月3日の東京武蔵野ユナイテッドFC戦だ。試合後、ファンの皆さんが喜んで下さっている光景に、昔の思い出が重なり合った。

それは2009年、湘南ベルマーレがJ1復帰を果たした時の光景だ。

反町康治監督、曺貴裁コーチ体制による昇格は、ビジョンに基づき、信念を持ってチームを変革したことの結実であり、自分にとって大きな成功体験だった。

話は20年前にさかのぼる。

私は選手を引退した後、スペインに留学。スポーツマネジメントを学び、帰国後、Jリーグクラブの強化責任者になった。32歳の時だ。当時は若かったし、何もわからないところからのスタート。選手とどう契約するのか、監督をどうやって選ぶのか。それすら知らなかった。

無我夢中であっという間に月日が流れていく中、私は疑問を覚え始めていた。

「チームは何のために、誰のためにサッカーをしているのだろう」

勝ち負けと昇格・降格=チームのすべて。そうとらえると、スポーツクラブの運営は難しい。招聘した監督、獲得した選手の当たり外れによって、チームは勝ったり負けたりを繰り返す。監督や選手は目先の結果が出ればもてはやされ、出なければクビ。毎年それが繰り返され、そこには親会社の意向も大きく反映される。自分のいたチームに限らず多くのJリーグクラブの現状はそうで、そこに一貫したビジョンはない。

決して忘れられない言葉がある。それはスペインに留学していた当時お会いした、バイエルン・ミュンヘンのGMだったウリ・ヘーネスさんの言葉だ。

「サッカーはいかに負けるかが大事だ」

すべての試合に勝つことなどできない。大事なのは負けた時、ファンの心に何を残せるか。負け方にこそ、クラブの哲学や姿勢が表れる。

そんな意味の言葉だ。

スポーツクラブにこそビジョンがなくてはいけない。そしてビジョンを達成するために、チームのプレースタイルはどうあるべきか。そのためにはどんな選手が必要で、今いる選手に何を求めるべきなのか。本来、考えるべきはそこだ。しかし、現状では難しい。

思い悩んでいた2005年にオファーをいただき、私は当時J2にいた湘南ベルマーレの強化部長に転身した。

ちょうどその時、中央大学から入ってきた選手が田村雄三だった。

当時のベルマーレでは、私と雄三は一緒に入った同期のような存在だった。私は強化責任者として、雄三は選手として、その後「湘南スタイル」と呼ばれるベルマーレのプレースタイルの基礎を築いていった。

■「こいつのファイティングスピリットに懸ける」

目指したのは、ヨーロッパのサッカーを基準に考え、常にゴールを意識したプレースタイル。ノンストップで走り続ける、攻守一体のアグレッシブなサッカーだった。前提となるのは選手全員のハードワーク。私は選手達に、トレーニングから常に100%の力を出し切ることを求めた。

メインスポンサーが撤退し、ベルマーレは1999年、J1からJ2に降格。そこから監督や展開するサッカーが毎年のように変わる状態だった。残念ながら選手の意識も、決して高いとはいえなかった。

その中で、雄三だけは違った。

決して上手い選手ではない。だが気持ちが強く、性格に裏表がない。どんな状況でも文句を言わず、自分の仕事を前向きにしっかりやる選手。チームで一番頑張れる選手だった。

「こいつのファイティングスピリットに懸けよう」

私はそう考え。雄三を核にすえると決めた。チームの「頑張る」ことの最低基準を彼に合わせられない限り、チームが目指すフットボールは成立しない。そう考え、走れない選手、ハードワークできない選手には、他のチームに移籍してもらった。

結果、多くのスターティングメンバーがチームを去った。「このチームはどこへ向かっているんだ?」という声も多く上がり、批判もされた。それでも、私は雄三中心のチーム作りを貫いた。

当時はFWにアジエルという外国人がいて、攻撃の中心になっていた。雄三はその後ろをひたすら走り回って守備をして、相手チームのアタッカーに食らいついた。泥臭いプレーをこなしながら、彼はいつしかチームを象徴する選手に成長していった。

2009年、反町康治監督は雄三を信頼し、4-3-3の1ボランチに置いた。それは「横50mをすべてお前が掃除しろ」というメッセージでもある。ちょうど今、彼が監督として黒宮渉に言っているのと同じことだ。そして、雄三は見事それをやり切った。チームは開幕からシーズンを通して上位に絡み、最終節にもつれた昇格争いを制して11年ぶりにJ1復帰。その立役者は間違いなく田村雄三だった。

スポーツチームにはビジョンが必要であり、プレースタイルはそれをベースに成り立つもの。その考えが正しかったことを証明できた。この時の経験が、いわきFCが展開する「魂の息吹くフットボール」の起源となったのは言うまでもない。

■心の底から「よくやった」と言いたい。

雄三はケガもあり、2010年に引退。引退試合で泣いた唯一の選手だった。その後はフロントでともに働き、このチームを作る時、一緒にいわきに来た。この間もさまざまなエピソードがあるのだが、長くなるので、またの機会に書きたいと思う。

雄三は2年目から監督となり、チームのカルチャーを築いていった。そして今年、JFL優勝とJ3昇格という最高の結果をもたらした。

今年11月3日のJヴィレッジスタジアムの光景は、2009年に昇格を決めた時の模様とオーバーラップする。あの時に中心選手だった雄三が今度は監督となり、こうやってともにJリーグへとたどり着いた。そのことが、何とも感慨深い。

今年は一貫して選手に寄り添い、成長を促し続けてきたが、彼自身が何より成長したと思う。心の底から「よくやった」と言いたい。

これからはスポーツディレクターとして、トップチームからアカデミーまで現場全体を見てもらう。新監督の村主を全力でサポートしてほしいし、アカデミー選手の育成にも深く携わってほしい。これからしてほしいことは山ほどあるし、まだまだ期待している。

スタジアムに出ていた横断幕の通り、我々は「浜を照らす光」でありたい。いわき市や浜通りの皆さんがワクワクする、熱狂空間を創り出したい。その思いを忘れることなく、これからもいわきFCらしく戦っていく。「社会価値の創造」と「人づくり」「まちづくり」。それとチームの勝利。このバランスをしっかり取りながら、2022年もファンの皆様と一緒に進んでいきたいと思う。

(終わり)

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