「ハイバイと岩井をさかのぼる」 第1回

「一年めのハイバイ」

2013年2月「ヒッキー・カンクーントルネード」ハイバイ旗揚げから

(構成・文 上條桂子さん)

――岩井さんが新しい活動を始められると聞いて、先日トークに伺った後考えたのですが、ハイバイを始めた頃からずっと、岩井さんが思っていらっしゃることはそんなに変わりはないのかなと思っていたところなんです。

岩井 両方かもしれないですね。書けなくなるだろうみたいな予感は、最初からあった気がするんですよ。書けて書いてるわけじゃない、みたいな感じが。

――私は書くことへの衝動みたいなことと、自分の心のバランスの取り方みたいなものに興味があって。今日は岩井さんからどういう風にお話をお伺いしようかあれこれ考えていたんですが、まずは作品について、淡々と聞いていくのがいいかなと思いました。

岩井 了解です。

ハイバイ旗揚げ「ヒッキー・カンクーントルネード」

――最初の公演は2003年ですね。でもその前に、『ヒッキー・カンクーントルネード』を書くきっかけになったのが、岩松(了)さんの舞台(『月光のつつしみ』竹中直人の会、2002年、本多劇場)に参加されたことだったかと思うんですけど。

岩井 演劇の大学を卒業して、その大学がまた古臭い演劇の大学だったんで、もう演劇に対する希望もへったくれもなく。

――でも普通に卒業はされたんですよね。

岩井 桐朋(学園大学)は短大なんですよ。だから二年間で卒業なんだけど、そのあとさらに二年間行きますかっていうので。そこに行くと、蜷川幸雄さんとか、木村光一さんっていう新劇の世界ではすごく有名な人の作品に出たり、演出を受けられるっていうので行って。でも、結局その2年間で、「おじさんたちの何かだな」って感じがすごくしてて。「自分と関係ある?この話」みたいな海外の戯曲とかばっかりやってた気がしますね。俳優の大学だからかわかんないけど、立ち方とか発声とか、もちろんそれも大事だけど、「こういうことのためにやってるのかな?」っていう。台本のため「だけ」に俳優が存在しているような演劇に違和感があって、まあ単純に全然面白くないと思って。

――その前に、お母さんからの誘いで、カルチャーセンターの……

俳優への興味

岩井 「俳優してみませんか講座」ね。それは大学に入る2〜3年前です。引きこもりから出た直後。

――そこで俳優に興味を持って、俳優の大学に入られたのかなって思ったのですが。

岩井 俳優に興味があったのは、そもそも引きこもってるときに映画ずっと観ていたからですね。アル・パチーノとか観て、すげー! みたいなので。

――作り手というよりは、演者っていう。あんまりそこに境界はないとか。

岩井 そうそう、なかったですね。誰が書いて、誰が出演してるみたいな区別はあんまりない。表立って出ている人しか見えてないわけですよね。

――映画が最初だったんですね。それで日芸受けようと思ったってことですね。

岩井 そうそう。だから引きこもりから出てすぐ、日芸受けようと思って大検の予備校行きながら、うちの母がすすめてくれた、「俳優してみませんか講座」っていうカルチャースクールに行って。

――それは、割とすっと参加できたんですか?

岩井 いま思うと、そこがゴールドシアター(故・蜷川幸雄彩の国さいたま芸術劇場芸術監督が2006年に創設した、55歳以上の劇団員からなる演劇集団)っぽかったんですよ。

――お年寄りが多くて(笑)。

初舞台はミュージカル

岩井 そう、年配の方が多くて。カルチャースクールだから。昼間にそんな暇な人いなくて。定年したおじさんたちと、あとは主婦で「空いてる時間あるからなんか習い事しよう」みたいな人のなかで、僕は21歳のときに参加して。でもね、それがたぶんよかったんでしょうね。いきなり同年代の人たちのところに放り込まれると、比べちゃったりして「今まで何してたんだ」みたいな自意識が発動しちゃってダメだったと思います。でも、そのカルチャースクールの皆さんがみんなやさしかったんで。「なんで若い子がいるの〜!」みたいな感じで、いちいち重宝がられたのがすごいよかったのかなって。そこで初めて稽古っぽいことしたときは、やっぱり楽しかったんですよね。みんなほめてくれるし。
それで、そこのカルチャースクールの先生が、高垣葵さんっていう先生なんですけど、むかしラジオ番組とかバリバリ書いてたり、16歳くらいで小説出したりしてるすごい人で。あと、いまから考えると、当時でも珍しい……まあ、当時ではそんなに珍しくもないのかな、史実を元に台本を書く人だったんですよね。僕が出たのも、スティーブン・コリンズ・フォスターっていう作曲家、「おおスザンナ」とか、ケンタッキーフライドチキンのあの歌(「懐かしきケンタッキーの我が家」 My Old Kentucky Home)とか作曲した人なんですけど、その人の生涯を書いたもので、僕が若いからってことでフォスター役だったんですよね。それが初舞台でしたね。町田にある「ひなた村・カリヨンホール」っていう200人以上入る劇場で。

――ピアノの発表会とか、そういう感じですよね。

岩井 でも恐ろしかったですよ。緞帳がしまってて、始まる前。ミュージカルだったんで、舞台上でダンスのポジショニングについて。

――ミュージカルだったんですね。

岩井 そうです。ダンスのポジションについてて。そしたらいきなり舞台袖から制作の人がバーッと僕たちのところに走ってきて。始まる直前なのに。「チケットがなんとかかんとか」ってコソコソ言ったと思ったら、そのまま走ってまた袖にいなくなって、「あれ、いまなんか言ってったけどなんだったんだろう」ってみんなでコソコソ言ってたら、オープニングの音楽が鳴り始めて、緞帳が上がり始めたんです。ゆっくりと緞帳が上がって客席が見えてくるわけだけど、緞帳が上がっても上がっても、誰もいない客席がどんどん見えていくだけ。僕たちはボックスステップ踏みながら、直視するわけじゃないけど、チラチラ客席を気にして、「やばい、お客さん全然いない!」と。そう思いながらも、どんどん幕が開いていって、一番上の二列くらいにちらっとみんなの知り合いだけいる、みたいな。出演者とだいたい同じくらいの数の。それが初舞台でしたね。

――じゃあ、目が怖い、みたいなそういう変な緊張感みたいなのは……。中学校とか小学校とかそういうときに、舞台とか出られたりしたことは?

岩井 うーん、一応小学校くらいのときに出てはいるけど、もう別になんか。保育園のときのことはなんとなく覚えてるというか、聞いてますけどね。『森は生きている』とかそういうのをやるじゃないですか。『手ぶくろを買いに』と『森は生きている』、両方おじいさん役をやったのを覚えてます。そんなもんですね。

――ライト浴びて拍手されるのも快感みたいな、いつもと違うみたいなのはありましたか。

岩井 そういう快感じゃないですね。「お客さんの反応についてどうこう」っていうのはもっとずーっと後だと思いますね。
これは小説にも書いたんですけど、出てる人たちのなかに、ものすごく頑固な人がいたんですよ。おばちゃんで、名前は忘れちゃったんですけど、けっこう大柄なおばちゃんで。「わたしはいろんな芸術を見てきたからね」って、やたらこだわりが強くて。しかも、舞台上では常に体全体がお客さんに向いている、みたいな人。それで朗々と泣き台詞みたいなのをやたら言う、みたいな人だったんだけど。演出家にも「もうちょっと相手役を見てでやってください」みたいにやさしく言われたりするんだけど、無視。朗々と「わ〜たし〜の台詞を言う〜〜〜!」みたいな人で、その人と稽古中も言い合いになったりしてたんだけど、本番になったらそのおばちゃんが急にちゃんとこっち見て演じ始めたんですよ。「いきなりどうした?」って思って。で、ラストシーンで僕(フォスター)がずっと通ってたバーで死にかけてる時ににそこのおかみさんとして、フォスターの人生をそのおばちゃんが慈悲深く語るわけですよね。そのシーンとかも、稽古場だと正面向いて言っちゃうから、こっちはなんにも感じられないみたいなことになってたんだけど、本番になった瞬間にたぶんビビったんですよ。客席、ほぼ誰もいないし。ビビったのと、すごい緊張で、めちゃめちゃ内臓全部震える、みたいな発声で、それまで聞いたことのない、いつもの朗々としたしゃべりじゃなくて、めちゃめちゃ縮みあがった心と体で、まっすぐ僕の方を見て話し始めたんですよね。それがすごい演技となりまして、2人とも舞台上で号泣、みたいなことになって。それがすごい印象に残ってますね。結局一番仲が悪かった人に泣かされたみたいな感じになって。いい意味で。それすごい覚えてますね。

――面白いですね。

岩井 それはすごい不思議でしたね。なんですかね、ああいうの。映画とかじゃありえないですよね。本番の緊張感が、おばちゃんにここ一番の演技を降臨させたというか。本当によく覚えてますね。

――しかも、アマチュアだからそういうことが起きる、みたいな。

岩井 まさにそうですね。本人はたぶん終わってから、「うまくいかなかった」と思ってるんだろうけど、客観的にみたら素晴らしい演技をしてたと思います。縮みあがったことで。そのとき僕はまだ「演技体がどうこう」とか、「台本がどうこう」とかいうことは考えてなかったけど、大学に入ってからはいろんな台本読んだりとか、あとは同年代、って言っても僕は人生に4年間のブランクがあるから、ちょっと年下の同級生とコミュニケーションとってるうちに、同年代との付き合いがそれまで何年間もないから、「そういえば同年代ではこういうことが面白いんだ」とか、「こういうことに意味を感じるんだよな」とかってなってくなかで、その大学がが扱う古臭いテーマや言い回しの戯曲をやったときに、「うちら関係ある? この話」みたいな。いま考えれば意味があるんだけど。木村光一さんの『調理場』っていう、アーノルド・ウェスカーっていうイギリスの作家さんの話かな。調理場が舞台の一幕ものなんだけど、そこは経済格差の問題とか、差別や移民の問題、若者のアイデンティティの問題とかすごくいろんなものが含まれてたけど、当時はそんなことを思えるほどの余裕もないし。

――歴史がいいって思えるのって、やっぱり年月が必要ですよね。

岩井 僕も三年前にフランス行くようになってからですもんね。日本っていう国が、こんなに極端に単一民族で、それをすごく守ろうとしていて、ヨーロッパからすると、そのことだけでもすごい極右の国って見えてたりするっていうことを知ってから、初めて気にするようになったっていう。当時はそういうことに興味を持てなかったし。で、結局その演劇の大学を出たところで、何が約束されるわけでもなく、僕という「自称、俳優」がひとり生み出されただけなんですよ。

――大学卒業するときっていうのは、卒業制作みたいなものをつくられたんですか?

岩井 卒業公演ですね。だけど、生徒はみんな結局俳優をやるわけです。桜美林大学とか多摩美術大学とかは、ほかのスタッフも一緒に育つんですよ。桐朋だけ、俳優のみの学校なんですよ。そうすると例えば「演劇をなぜつくるか」っていうアートマネジメントみたいな勉強も一切しないんですよ。「演劇や芸術文化がなぜ、どういった時に我々には必要か」といったことは一切考えないまま、ただただ、いきなり演出家がやりたい台本を持ってきて、一生懸命やってたら、「お前は嘘をついているんだよ!!」って襟首掴まれるみたいな、本当にド昭和みたいな世界だったから。

(文字起こし 碇雪恵さん)

(つづく)

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