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【歴史シリーズ】楠木正成に思ふこと【其の二】

吉田松陰先生に「受け継がれる意志」


前回の記事はご好評をいただけたようで、とても嬉しく思います!m(_ _)m

皇居外苑に佇む「大楠公銅像」の存在に触れ、

「歴史上のNo. 1の偉人」という人気ぶりについてお伝えしました。


「歴史とは物語である」とは、

大人気マンガ『ONE PIECE』においても登場する言葉ですが、


「物語」は触れる人に「感動」を与え、

「感動」は「感じて動く」ところから、

具体的な「行動」へと人を走らせるものです。


先日、インスタライブでも触れさせていただきましたが、

大楠公の「物語」に触れて誰よりも「行動」に走った人こそ、

かの吉田松陰先生だったに違いありません。


その事実は、松陰先生の行動を客観的に追うことからもわかりますが、

何より松陰先生ご自身が直接遺された言葉からも受け取ることができます。


「七生説」についての考察


松陰先生について調べていたところ、

遺された言葉の数々をまとめたWebサイトをいくつか見つけました。

世の中には「超訳」と名のついた現代語訳もいくつか知られていますが、

昔ながらの言葉遣いは「文語文」として、

響きやリズムに格別のものを感じます。m(_ _)m

冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍躍として人に迫る。

吉田松陰「士規七則」より

尋常でない読書家であった松陰先生だからこその、真実の言葉ですね。


さて、松陰先生が楠木正成についての考えをまとめたのが

「七生説」(しちせいせつ)

という名文として遺されています。

今回はその一部を引用しつつ、想いの真相を考察して参ります。m(_ _)m

余聞く、「贈正三位楠公の死するや、其の弟正季を顧みて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊を滅さん』と。公欣然(きんぜん)として曰く、『先づ吾が心を獲たり』とて耦刺(ぐうし)して死せり」と。

吉田松陰「七生説」より

これはかの有名な「湊川の戦い」での楠公兄弟の最期のシーンですね。


「七生説」の「七生」とは、楠公の弟の正季(まさすえ)が言った

七生滅賊」から取られています。


欣然として」とありますが、これは「喜んで」という意味です。


北朝の足利氏との立て続けの激戦の果て、

死に赴くに当たって「微笑んで」兄弟で差し違えた

と伝説的に伝えられているわけです。

(中略)
楠公兄弟は徒(ただ)に七生(しちせい)のみならず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者なければ、則ち楠公の後、復た楠公を生ずるもの、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。

同上

松陰先生曰く、「楠公は一度たりとも死んでいない」と。

「七度生まれ変わる」のではなく、「生き通しに生きている」と。

この辺りで、勘のいい方は既にお気づきかもしれません。

「死に際に笑う」「受け継がれる意志」「人は忘れられた時に死ぬ」

といったメッセージは『ONE PIECE』作中のもの。


日本の歴史に実在した物語であり、大きく歴史を動かした物語ですから、

一つの典拠になっているのではないか、とも考察しております。m(_ _)m

余嘗て東に遊び三たび湊川を經、楠公の墓を拝し、涕涙禁ぜず。其の碑陰に、明の徴士朱生の文を勒するを観るに及んで、則ち亦涙を下す。噫、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩あるに非ず。自ら其の涙の由る所を知らざるなり。朱生に至りては則ち海外の人、反って楠公を悲しむ。而して吾れ亦生を悲しむ、最も謂れなし。

同上 続き


楠公精神を受け継いで立ち上がったのは松陰先生お一人に限りません。

湊川神社に参拝すると、楠公墓所の横に朱舜水の碑文があります。


湊川神社 本殿


血のつながった親子の関係でもなく、

ましてや同じ国で生まれ育ったわけでもないのに、

同じように楠公の運命を悲しんで涙することが出来る。


そうして連綿と受け継がれてきた「想い」を受け継いで、

「維新回天」へと驀進していったわけですね。


「涙を禁じ得ない」物語が「歴史」である


近年、いわゆる「陰謀論」が余りに隆盛といいますか、

それにはいい面も悪い面もあるとは思いながらも、

正当な意味での「歴史」が顧みられなくなってしまうことを恐れています。


歴史とは、

ある観念で一括りにして片付けて知った気になるためのものではない。


生きた人間のドラマ(活劇)に肉薄して、

魂を通じて打ち震えるような感動をもたらすものに違いありません。


もちろん、外国勢力の陰謀があったこと自体は否定しませんが、

とにかく「支配されている」という強迫観念を強めるだけの、

中身のない学び方では、却って日本人としての本質から遠ざかります。


何かにつけて陰謀論を振り回す人の中で、

一人ひとりの歴史上の人物の「想い」を語れる人が、

一体どれくらいいるのでしょうか?

歴史の中核は詩だ。
この中核を包む歴史の深層は、美しい情緒のかずかずをつらねる清らかな時の流れである。

岡潔『春風夏雨』より


無論、このような事情をもたらした原因の一端は、

戦前戦後の歴史教育にもあると言えるでしょう。

面倒な工夫は要らぬ、もっと歴史を面白く教えようと工夫すればそれでよいのだ。今迄面白く教えていたところを一段と面白く教えようと工夫するというのなら難かしい事かも知れないが、わざわざ詰らなく教える工夫をしていた様なものだから、ただそれを止めればよいわけだ。それに、歴史の先生の工夫と言っても、歴史という巨人がして来た工夫に較べれば物の数でもないのだから、巨人の工夫に素直に従えばそれでいいわけです。例えば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ、これを無味乾燥なものと教えて来たからには、そこによっぽど余計な工夫が凝らされて来たと見る可きではないか。

小林秀雄『考えるヒント3』「歴史と文学」より


高校で日本史を選択しなくて良かったなと、心から思えます。笑

日本の歴史に触れたのは大学に入ってからでした。


しかも、読書の上からでなく、実地に赴いたり先人に直接聞いたりして、

観念で切り取ってまとめたような陳腐なものではありませんでした。


その中でとびっきりで魂を揺さぶられたのが大楠公の物語です。

このシリーズはまだまだ続きます。。。

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