見出し画像

ウォルト・ディズニー社100周年、1923年に創立された小さなアニメスタジオの歴史

ウォルト・ディズニー 「すべては1匹のネズミから始まった」

夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないで欲しい。すべて一匹のねずみから始まったということを

meigen.info

ウォルト・ディズニーは、アニメーションの世界に革命をもたらし、多くの人々に感動と喜びをもたらしました。ウォルト・ディズニー社100周年を記念して、彼の残した素晴らしい業績を振り返ります。


ウォルト・ディズニーの紹介


ウォルト・ディズニーの幼少期と初期の影響については、マーセリン、カンザスシティ、シカゴでの体験が彼の想像力と絵画への興味を形作ったと言われています。

1901年12月5日に誕生したウォルトは、彼の父エリアスと母フローラが異なる個性を持つことに触れ、様々な挑戦に直面しつつも両親からの影響を受けています。

ウォルトが最初に絵と芸術に触れたのはマーセリンでした。マーセリンで過ごした後、カンザスシティに引っ越し、ウォルトは絵を描き続け、週末には美術の授業を受けました。彼は、自分の書いた絵で、地元の理髪店に無料で散髪してもらうことさえしました。

ある夏、ウォルトは列車の仕事に就き、彼はお菓子や新聞を売りながら電車の中を行ったり来たりしていました。彼は列車での仕事を楽しみ、残りの人生を列車に魅了されることになりました。

その後、彼の家族は大都会シカゴに引っ越しました。ウォルトはシカゴ・アート・インスティテュートで授業を受け、学校新聞のために絵を描きました。学校を中退して第一次世界大戦の赤十字に加わった後、アーティストとしてのキャリアをスタートさせる準備をしました。アートスタジオを経て、広告会社に勤務。この頃、アーティストのウッベ・アイワークスと出会い、アニメーションについて学びました。

アニメーションを作りたかった彼は1921年に「ラフォグラム・フィルム」という自分の会社を立ち上げました。彼は何人かの友人を雇い短編アニメーションの制作をはじめました。作品は人気があったが、事業は十分な利益を生まず、ウォルトは2年で破産を宣言しなければならなくなりました。

しかし、1つの失敗は彼を止めることはできず、1923年、カリフォルニア州ハリウッドに移り住み、兄のロイ・O・ディズニーとともに「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ」という新しいビジネスを開業しました。彼らは人気キャラクターのオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットを開発し、ビジネスを成功させました。しかし、ユニバーサル・スタジオがオズワルドの商標権を獲得し、アニメーターをすべて買収することになりました。

もう一度、ウォルトは最初からやり直さなければならなくなり、新たにミッキーマウスというキャラクターを作りだしました。彼らは、音声を持つ最初のアニメーション映画を制作しました。それは1928年にアメリカで公開された「蒸気船ウィリー」と呼ばれる短編映画で、ミッキーマウスとミニーマウスが主演しました。ウォルトは蒸気船ウィリーの声を自ら演じ、映画は大成功を収めました。

ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオは、その後「ウォルト・ディズニー・スタジオ」や「ウォルト・ディズニー・プロダクション」という名称で運営され、1986年に正式に「ウォルト・ディズニー・カンパニーに」社名を変更しました。

ミッキーマウスの誕生


ウォルト・ディズニーは「すべては1匹のネズミから始まった」と語っています。その言葉通り、彼の創造力から生まれたミッキーマウスは、初の音声と映像がシンクロした短編アニメ「蒸気船ウィリー」でスクリーンデビューし、大きな評判を呼びました。

ミズーリ州の田舎で少年期を過ごしたウォルトは、兄の助けを借りて広告会社へ就職。アニメーターとしての資質を開花させると同時に、将来の娯楽アニメーションの可能性を確信したと言われています。21歳でハリウッドに進出し、世界初のアニメ音声映画の大ヒットで。いきなり映画界の寵児へと成り上りました。

「ミッキーマウス」シリーズを次々と制作するとともに、「白雪姫」「ダンボ」などの長編アニメーションも次々に発表しました。

長編カラーアニメ映画の先駆者


1937年に公開された「白雪姫」は世界初の長編カラーアニメ映画であり、空前の大ヒットを記録しました。また、1940年の「ファンタジア」では映画史上初めてステレオサウンドを使用し、映像表現の新たな地平を開拓しました。

手塚治虫との交流


手塚治虫は日本の漫画とアニメの両面で偉大な足跡を残した人物です。彼はウォルト・ディズニーを「心の師」と仰ぎ、ディズニーの作品に多大な影響を受けたことを公言しています。

ウォルト・ディズニーは、魅力的な物語やキャラクターを生み続けることを願っていた偉大なアーティストであり、彼の伝統は昔も今も高品質な作品として、多くのアーティストに影響を与え、その精神は受け継がれています。

日本のディズニー人気


今では、世界中で大人気のディズニー映画ですが、日本で非常に人気高いことは皆さんもご存じだと思います。ディズニー映画は、子どもだけでなく大人も楽しめる魅力的な作品がたくさんあります。老若男女、家族みんなで楽しめる内容であり、日本のエンターテインメント文化に欠かせない存在となっています。

初期のアニメーションの成功


ミッキーマウスをフィーチャーした「蒸気船ウィリー」のリリースは、ディズニー・ブラザーズ・スタジオにとって重要な成功を意味し、「ザ・スケルトン・ダンス」や「フラワーズ・アンド・トゥリーズ」などの他のアニメーションヒットも生み出されました。

経済的なリスクの中での挑戦にもかかわらず、ウォルトのアニメーションへの情熱と革新はスタジオの成長と成功に寄与しました。

アニメーションの黄金時代


アニメーションの黄金時代におけるスタジオの拡大は、「白雪姫と七人の小人」(公開年: 1937年)、「ピノキオ」(公開年: 1940年)、「ファンタジア」(公開年: 1940年)、「ダンボ」(公開年: 1941年)、「バンビ」(公開年: 1942年)などの不朽の名作を生み出しました。

人々が長編アニメーション映画を観たいと求めると共に、ウォルトは成功を収め、世界中で高く評価される作品を制作し続けました。

多様化と遺産


ディズニー・ブラザーズ・スタジオの成功はアニメーションだけでなく、『メリー・ポピンズ』(公開年: 1964年)などの実写映画にも拡大しました。

ウォルトの大きな夢は、ディズニーランドの制作へと続き、親子が楽しめるテーマパークの実現に貢献し、ウォルト・ディズニーの不朽の遺産を築き上げました。

ディズニーランドの設立


ウォルトは自身の理想を叶える場所として「ディズニーランド」の設立を計画し、1955年に開業しました。これが後のディズニーリゾートへと繋がっていくことになります。

4つのC


ウォルトディズニーは、その「4つのC」(Curiosity, Courage, Constancy, Confidence)を実践し、大きな困難を乗り越えて夢を実現した偉大な人物であり、20世紀を代表する人物の一人と言えるでしょう。

ウォルト・ディズニーは語っています。

夢をかなえる秘訣は、「4つのC」に集約される。それは、「好奇心」「自信」「勇気」そして「継続」である。

この言葉からも、ウォルト・ディズニー社が次の100年も、私たちをおおいに楽しませてくれる偉大な会社であることに違いないということが、伺えると思います。

記事を読んでいただきありがとうございました。
良かったらコメント、スキ、フォローお願い致します!

その他、自社HPのコラム記事の紹介です。

興味があるページがありましたら、ぜひご覧ください。

心に残る映像を、より多くの皆様に。
千葉県松戸市のファインの動画はコチラから!

メインサイト
https://fine-production.co.jp/
サブサイト
https://peraichi.com/landing_pages/view/lp-fine-production

関連作品

蒸気船ウィリー
(1928年製作の映画)
Steamboat Willie

製作国:アメリカ上映時間:7分

骸骨の踊り(1929年製作の映画)
The Skeleton Dance

製作国:アメリカ上映時間:5分

白雪姫(1937年製作の映画)
Snow White and the Seven Dwarfs

上映日:1950年09月26日
製作国:アメリカ上映時間:86分

#コラム
#最近の学び
#勉強
#映画


この記事が参加している募集

最近の学び

もし、サポートをいただいた場合は、現在進行形の制作や今後のチャレンジのために大切に使わせていただきます。 サポートや支援の代わりに、シェアかコメントをいただけると大変励みになります。!