能楽が21世紀にデザインするもの
「能楽は、エンターテイメントなのか?」
そんな問題提起から、能楽の名門・宝生流の家元、宝生和英さんのトークセッションは始まった。(@4/21 宝生能楽堂 Weekend Museum)
海外ではジャパニーズ・ミュージカル(オペラ)などと呼ばれることもある能楽だが、その真髄は、エンターテイメントとはむしろ真逆だという。
能楽は、心をしずめるための芸能
映画やミュージカルなど、人間の心の動きを誇張して表現し、我々の喜怒哀楽の感情を増幅することで、心をゆさぶるのがエンターテイメントであるのに対し、人間の精神世界を静かな一本調子で表現し、自分の内面と向き合う時間を作り出すことで、心をしずめるのが能楽なのである。
それは休日にミサや美術館に行ったり、ヨガやマインドフルネスをする感覚に近いという。我々が美術館に行くのは、刺激的な絵を購入したいからではない。名画の前に立つと、何度も見た絵でも、年齢や状況に応じて、その都度、感じ方も異なる。それは自分の心情の変化を見つめている時間なのだ。
能には、一喜一憂するドラマティックな展開はない。うたた寝してしまっても、場面はほとんど変わらないし、別に、舞台に集中しなくても、物思いに耽ったり、仕事のアイデアを考えたりする時間にして構わないと言う。弱冠31歳の家元の感覚はとても現代的だ。
「あの演目を見た」ではなく「あの演目であんなことを考えていた」
能楽は、自分自身と向き合う体験をデザインしているのかもしれない。
能楽がデザインするのは、無形の美
能楽は、自分自身の変化を楽しむ芸能であると同時に、能楽それ自体が、変化していくことを許容しているように思う。
能楽の発祥は、苗を蒔くのに農民が謡曲でリズムを合わせたという説や、鬼の役を僧侶が払う、豆まき的な儀式が源流という説など諸説ある。
また、室町時代に観阿弥・世阿弥が大成した後も時代に合わせて、儀式として、プロパガンダとして、癒しとして、用途を変えながら存続してきたと言われる。
また、今のような劇場型の能楽堂になる前は、寺社仏閣などの屋外での上演が主流だった。舞台の周りには白砂利が敷かれ、太陽の反射光が舞台を刻々と変化させる。同じ演目にも、時間や天候・季節が微妙な陰影をつくり、その時・その場だけの美しさが立ちのぼるのである。
そのような事を知ると、能舞台が絶妙にデザインされたものだと気づく。能楽は舞台は正方形であることなど、様式が定まっており、背景には必ず松が描かれる。この松は神が宿るとされる奈良県・春日大社の「影向の松」と言われ、神仏に捧げるために能の舞があることが分かる。
また、「夢幻能」という種類の能では、舞台左の「橋掛かり」が異なる世界(あの世とこの世)をつなぐものとして機能し、舞台上で人間と人間ならざる存在(神や死者)との対話が描かれる。
不動の神の御前で、有機的な変化(自然や、人の謡曲・囃子・所作)を許容し、さらに永遠(あの世)と刹那(この世)が舞台上で一つに昇華され、無形の美を作り上げるのだ。
「幽玄」という能楽が体現する重要な美意識があるが、これは形あるものの優美さではなく、計り知れない奥深さや、しなやかで形の無い趣のようなものを指す。それは能楽という芸能自体が変化を許容しながら、一定の様式の中でデザインされてくる中で獲得した、底知れない懐の深さのようなものだと思う。
自分と対話するために、能楽堂へ行ってみよう
今回のイベントは宝生流の能楽師の友人が誘ってくれたのだが、先の通り、宝生流は家元の感性が非常にフレッシュで、伝統を継承しつつも、夜能や癒し能、現代音楽とのコラボレーションなど、新しい試みを積極的に行なっている。
仕事のアイデアを考えるために来て下さい、と言われたのは私自身、能へのイメージががらっと変わる体験で、家元もまた、21世紀の能楽をデザインする実践者だと感じる。この記事を読んで興味を持って頂ける方がいたら、心を鎮め、自分と対話するために、一度、能を鑑賞してみてはいかがだろうか。
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