フェス犬

『線でマンガを読む』さくらももこ

『ちびまる子ちゃん』連載第1回がどんなお話だったか、覚えておられるだろうか。一学期が終わり、明日からは夏休み。学校から帰宅途中のまる子とおねえちゃんが、ひとりのおっさんと遭遇する。

『ちびまる子ちゃん』さくらももこ(集英社)1巻 P.7

子ども相手に他愛のない手品グッズを売りさばいているおっさんなのだが、完全にアウトな業界の人だ。言わずと知れた少女マンガ誌「りぼん」の、連載第1回で、こういうタイプの人間を登場させるというのが、すごい。まあふつうの少女マンガには出てこないだろう、こういう人は。

エッセイや大人向けのマンガで、さくらももこのアウトサイダーへ向けた熱いまなざし、観察眼がいかんなく発揮されるのは、もうすこし後のこと。しかし、『ちびまる子ちゃん』は「りぼん」に連載されるマンガとしては破格のアウトサイダー感を漂わせながら登場していた。

『ちびまる子ちゃん』をすごいと思うのは、「りぼん」の看板作品としての少女マンガ的な要素をもちながら、たとえばありし日の「ガロ」に連載されていたとしても違和感のないアウトサイダーっぷりを併せ持っていることだ。

このふたつの要素は、ふつうは水と油の関係にある。『ときめきトゥナイト』や『ママレード・ボーイ』が「ガロ」に連載されたり、蛭子能収や根本敬のマンガが「りぼん」で始まったりすることは、ない。しかし、『ちびまる子ちゃん』はどっちの雑誌でもいける。少女マンガ的な部分と、カルトマンガ的な部分がほどよいバランスで合わさっている、ということにとどまらず、お互いがお互いを増強しあっているような絶妙さがある。

はなしのつづき、まる子はなんとかしてくだんの手品グッズを手に入れようと思い、お母さんに金を無心するがあっさり断られる。そこで出てくるのが、祖父の友蔵である。まる子におこづかいをくれるのだが、ノスタルジーにあふれた、じんわりくるシーンだ。

『ちびまる子ちゃん』さくらももこ(集英社)1巻 P.9

いまさら説明することもないのだが、「おじいちゃんのしわしわの手からもらった100円は すごくあったかくて」というモノローグに、なんともいえない叙情性があって、だれしもが懐かしい気分になる。

しかし、よく考えれば、まる子はこの金をもって、さきほどのアウトなおっさんのところに戻って、ろくでもないものを買おうとしているのである。結局おっさんはいなくなっていて、買えなかったのだけど。

いいシーンなのだが、かなしい。友蔵は実の孫にさんざんだまされる哀れで滑稽なキャラだが、友蔵のなけなしの金があのアウトなおっさんのもとに渡ってしまう、ということが、その哀れさ、滑稽さをさらに増幅させている。

しかし、あのおっさんがいるからこそ、友蔵の純粋無垢に孫を思う心というのが鮮明に浮かび上がってくる。そして、『ちびまる子ちゃん』においては、このばかみたいに素朴な人と、アウトサイダーの緊張関係のはざまで、あまたのギャグが繰り出されている。

ただ、ひとつ留保が必要だ。おじいちゃんの人の良さ、牧歌的なありようは、現実そのままではなく、「人の良さ」「牧歌的」という要素を恣意的に取り出して人工の空間で無菌培養してつくられたものだ。それは本当に昭和に存在した(村八分的な事態やいじめなどがおこっていたであろう)現実の町の光景とは少しちがうはずだ。

テキ屋のおっさんはさすがにレギュラーにはならなかったが、その後もまる子の周りにはさまざまなアウトサイダーが現れる。最初期から登場していて、かつ濃厚にアウトサイダーの気配を漂わせている男といえば、丸尾末広…じゃない、丸尾末男そのひとである。

『ちびまる子ちゃん』さくらももこ(集英社)2巻 P.7

彼もかなしさを醸すがゆえに笑いを誘うキャラだ。この人の資質は、完全にアンダーグラウンドのほうにむいていて、そっちの方面で能力を深化させていけばかなりの人物になるだろうと思う。

しかし、彼が欲しているのは、学級委員という世俗の価値観なのである。彼の資質から言ってこういう日のあたるポジションはすこしも向いていないが、本人は執拗にこの地位にこだわり、周りの人間をエキセントリックな態度でドン引きさせてゆく。ここでも、牧歌的なフツーの生徒と、丸尾くんというアウトサイダーのあいだの緊張関係が、ギャグの温床となっている。

ところで、丸尾くんの顔にかかる縦線。これは『ちびまる子ちゃん』の代名詞ともいえる記号だ。

『ちびまる子ちゃん』さくらももこ(集英社)1巻 P.21

マンガキャラは基本的に少ない線で明瞭な感情表現を表すことのできる記号的な存在だ。反面、微妙な気持ち、表情、言葉にならないもやもやした感情を表すための方法は確立されておらず、それぞれの作家の工夫が必要になる。

さくらは、「記号で表すことのできない微妙な気持ちを表す記号」というメタ記号的な額の縦線を、従来のマンガから換骨奪胎して用いた。たんなる悲しさや怒り、羞恥などの個別的感情をこえた、言葉にならない「気分」を示すにあたって、この線のコペルニクス的な使用が非常に効果的だった。

多くのばあいにおいて、ネガティブな気分に陥ったときにこの線が現れるのだけど、じつは、丸尾くんは普通の表情をしているときにも、つねに線が入ったままなのである。丸尾くんは、普通の人が「残念」とか「ネガティブ」に感じるような状況をまったく意に介さず過ごしている。だから、ずっと線が入っていても、快活でエネルギッシュだ。さすがアウトサイダーの世界の住人なのである。

まる子たちにとって、アウトサイダーの世界は長く滞在できるようなところではない。いっぽう、丸尾くんは、アウトサイダーの世界こそがホームグラウンドだ。丸尾くんこそが『ちびまる子ちゃん』のアウトサイダーの世界とあの特徴的な顔の線の意味するものを体現する存在なのかもしれない。

さきほどの友蔵とアウトなおっさんが、互いの特性を増幅しあっていたように、まる子のクラスに配されたキャラのなかには、相反する性質でもってお互いの面白さを引き出し合う関係が生成している。おおざっぱな構造は以下のようなかんじになるんじゃないだろうか。

アウトサイダーの頂点に位置するのが、丸尾くん。そしてその真逆の方向にいるのが、大野杉山コンビだ。このふたりは「少年の友情」を無菌培養した、純粋なノスタルジーの領域にいるキャラだ。丸尾くんと大野&杉山くんという絶対に分かり合えないキャラどうしのからみは、言葉の本当の意味でシュールだ。

そして丸尾―大野&杉山という構図とはまったく関係のないポジションに、花輪くんがいる。彼は清水町の牧歌空間にも、アウトサイダーの世界にもいない。学校のなかでのステイタスを追い求める理由もなければ、世間のルールを守る必要もない。ただ金持ちとしてそこにいる存在である。花輪くんはその圧倒的な存在感で、丸尾くんを恐れさせている。

山田と野口さんは、まる子の分身的な面がある。底抜けの楽天家で牧歌的な子どもとして純化させれば山田に、アウトサイダーの道にはしれば野口さんになる。まる子はいつも山田と野口さんの間を行ったり来たりしてだいたい真ん中のポジションに収まっているかんじだ。それがそのまま作者のさくらのすがたでもあるかと思う。

さくらはこのようにそれぞれの特徴をもったキャラクターを縦横に配し、メジャーとアングラ、少女マンガの世界とアウトサイダーの世界、ストーリーマンガとギャグマンガの境界を自由に飛び越えた。稀有な才能の持ち主だ。

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。

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