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それでもM-1は特別な舞台 -- 言い訳 塙宣之

先週末のゴッドタンで話題になっていたので早速kindleで購入。あっという間に読んでしまいました。

ナイツの塙宣之が過去のM-1の総括をする、でもそれはM-1で優勝できなかった彼にとっては所詮言い訳でしかない、だから「言い訳」というタイトルになっているのですが、読んでみると前回のM-1決勝で和牛ではなく霜降り明星に票を投じたことに対する言い訳になってしまってるような気がしますね、ははは。

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本書ではM-1という舞台の特殊性を解説しながら、過去の歴代優勝者がなぜ優勝出来たのか、敗退した芸人にはなにが足りなかったのかが、筆者独自の視点で語られているのですが、本書のユニークなところはM-1の舞台に的を絞っている点にあります。

普通芸人を語る場合には、誰それの作るネタは面白いとか誰々の突っ込みは素晴らしいとか、属人的な評価になりがちです。しかし実際にはお笑いの舞台では場の空気だったり客層だったり様々な外的要因によってウケたりウケなかったりします。芝居でも漫才でも同じだと思いますが、全く同じ舞台というのは無いのです。

本書の場合、M-1という軸を立てることによって、「私たちが見ていた、あの日あの時あの舞台でなにが起こっていたのか」という視点が生まれています。つまりこちらとしても噛り付くように見ている番組ですから、自分の記憶と照らしあわせながら読み進めることができます。それがとにかく興味深いです。

特に勝利した芸人よりも、そうでない芸人の話が圧倒的に面白い。M-1で面白かった芸人は普段も面白いわけで、M-1だから特別面白かったわけではありません。見ている私たちでさえ彼らの面白さは知りすぎるほど知っています。しかし、逆となると話は別です。

M-1で失敗する芸人にはM-1で失敗する理由があるわけです。仮にも決勝まで勝ち上がっている芸人ですから面白くないわけないのですが、M-1の舞台ではその実力が発揮できない。それを私たちは「滑った」とか「やらかした」とかの言葉で済ませてしまいがちですが、そこを筆者は、残酷なまでに具体的に敗因を分析します。

キングコング、ジャルジャル、ハライチ、マヂカルラブリー、ゆにばーす、スーパーマラドーナ、オードリー、三四郎、スリムクラブ、そして笑い飯。彼らはなぜ王者になれなかったのか(笑い飯は王者になってはいるけれど、その時は唯一松本人志の審査が情に流されたともしっかり書かれています)。

ただ、それでもそこに著者の上から目線や悪意は全く感じられません。たとえ自分たちの芸がM-1のレギュレーションに向いていなくても、M-1にスタイルをあわせるべきではないとし、準優勝して即M-1の舞台を去ったオードリーに至ってはその引き際を絶賛しています。意外なことに本書の終盤では筆者の芸風に反してウエットな文章が目立ってくるのですが、あのナイツの塙宣之にとってM-1は「それが全てではない、けれどそこは特別な舞台」ということのようです。

最後に。私は最初、ナイツのヤホー漫才が苦手でした。なんで苦手なのかわからないけれど、どうしてもこれは漫才じゃないと思っていました。しかしその後、私がナイツの評価を改めざるを得なかったネタが二つあります。ひとつは例の酒井法子のネタ、そしてもうひとつは「ナイツ塙の兄」というネタです。ネタの攻めっぷりもさることながら、漫才として格段に面白くなっていました。

一体何が変わったのかわからない。一皮剥けるとかそういうことなのかとも思いましたが、そのあたりの変化の理由もちゃんと書いてありました。筆者に与えられたある人物からの助言、それはまさに私が漠然と感じていた「面白い漫才」をひと言で言いあらわしていたのです。

とりあえず読んでください。
島田紳助。なんつーか、さすがです。


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