ただの人と、作品との間に
いつの日か、電車の改札へ降りる階段を下るとき見つけた広告。ぼんやりとしたイメージの絵画と、明朝体チックな文字。新国立美術館「テート美術館展 光」。
絶対行こう、そう夏休み前に決意したはずなのに、引き延ばして引き延ばして、最近開催時期を調べたら「もう終わるじゃん!」とギリギリな私の性格が出てしまった。
いつ行けるかなぁと考え、バイトがかなり早く終わる日が最終日だった。仕事と授業の合間にでも、と捻出した時間で乃木坂駅に向かったのだった。
チケットを買うにも混雑していた。キャンパスメンバーズだったから、窓口のほうがいいよなぁと思い並んでいると、後ろの海外の方に声をかけられた。スマホで「チケットを買うところですか」と翻訳された日本語があったので、日本語でそうだと伝える。よくわからなそうだったので英語で伝えてもみた(伝わったかどうかは定かでない)。海外の人も多いのかぁとしみじみ。
中に入ってまた入場の際並び、中に入った。会場内は結構混雑してるよ、とSNSで見たので、サクサク歩き、自分が好きかも、と思った絵で足を止めた。写真撮影可能な箇所もあったので、静かな空間にパシャリと連続した音が響いていた。
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美術館や博物館巡りが好きだと気づいたのは、つい最近。遠足で行く場所、みたいに捉えていたから、一人で行く機会がなかったのだ。
藤のようさんの『せんせいのお人形』を読んでいて、東京国立博物館が出てくるシーンがあった。そのとき、あぁ私も見てみたいなぁと漠然と思い、けれどそのときはまだコロナ禍で上京していなかった。
大学生になって東京国立博物館に行き、主人公のスミカのように階段を見上げた。これが聖地巡礼か、と思いながら。菩薩像を見たとき、これが人の手で、と感動した。恋に落ちそうだった。
誰かと巡るのは対話できてそれはそれで楽しいのだが、一人で巡るのはまた違った楽しみだ。前にもお出かけのnoteで書いたけれど、誰かといるときにはその人といる自分になってしまい、自分の素直な気持ちが出てこない。これは自分の気持ちを誰にも踏みにじられたくない私の防衛手段であり、相手が悪いわけじゃない(気のおけない友人でも、家族でも多少あるくらいだから)。
作品と向き合うとき、私は絵も書けず美術史も知らず、ただ世界のことを何も知らない一人として向き合わなければいけない。どうやって作ってるんだろこれ、このバランス感覚は面白い、なんかわからないけど、好き。
そうしてただの人間として作品を見るとき、私は確かに社会から逸脱できる。学生として、21歳として、誰かの家族であり、誰かの友達であり、社会人としての私でなくていい。あの作品群の前で、私は圧倒的に無知で無力だけど、そうやっていられる場所は、とても大切だと思うのだ。子どもでいていい場所、と言ってもいいのかもしれない。
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それでも、これまで生きてきた経験の中で、感想をひねり出す。言葉にできなくとも、何も理解できないまま。ただの一人の人間として作品と向き合う間には、確かに作品と、作者と、自分自身とのコミュニケーションがあるのだ。美術館巡りしかり、読書しかり、私は誰かと話しているのが好きなんだろう。
金銭的にも、経験的にも、学生のうちにいろんなところへ行っておきたいな。
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