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大人になんて、なりたくなかった。

「大人になりたくない。あんな卑怯な人たちと同じになるくらいなら、死んでしまいたい」

 中学2年生のとき、私はそう思っていた。14歳の私は、20歳の私を見てどう思うだろうか。大人になったんだね、そっち側の人間になったんだねと、軽蔑されてしまうだろうか。
 今だって、私は14歳のときと同じ、言葉にできないつらさや苦しさを抱えて、大人になりたくないと思っている。また歳を重ねても、大人になりたくないと思うのかもしれない。でも今は、今の私は、14歳のときに思っていた「大人」が、それほどやなヤツとは思えなくなっていた。

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 もちろん今だって、卑怯な大人がいることもわかるし、というか大体の大人が卑怯なんだ、そうじゃないと生きづらいんだろうなぁって思っている。例外なく私も、卑怯だと思う。誰かの都合で考えられ決められたことを、いとも簡単に"正義"だと言ったり、当たり前になってしまったことを疑いもしなかったり。言動や行動の隅々に見えることから、大人は何にも考えないで卑怯だと思っていた。
 けれど今はこう感じている。大人は、私の延長線上にいたんだと。
 私が抱えてきた、いろんな感情。言葉にはできないようなもやもやや、火花が散るような苦しさ。大人は、それを熟したものや、大きくしたものを持っている(あるいは見ないフリ、あるいは捨ててしまったり)。話し合いで解決することは大切だとわかっている、けど、どうしても譲れないものがあって、そこにしがみつくしか他に選択肢がないような気がして、目をそらしながら誰かと離れ、誰かと出会う。正しいのは悪口を言わない方だけれど、悪口を言うことで自分が守られるならそのグループを選ぶ。正しいことは自分の中に潜在している、わかっている、だけど正しいだけじゃ息ができないから。そうやって、「大人は卑怯だ、卑怯な大人にはなりたくない」と思った頃が誰かの中にもあって、大人になって「自分も卑怯だ」と思うのかも、と。

 14歳の私をうらやましく思うときがある。世界のことについて知った気になって、このままじゃいけないでしょ、なんで何も言わないの、と主張したくてたまらなかったあの頃。傷ついた私をどうか助けてと叫ぶことが許されていたあの頃。歳を重ねて、他者の考えていることがわかったり、わからないからこそ受容できることも増えた。あの頃は自分の主張を言えたのに、今、言えなくなったのは、視野が広くなって、様々な出来事を知ったからだ。適用外のことが、考えなければいけない対象が、視野が広くなった分見えてしまうから、うかつに言葉にできない。自分が嫌いだと泣くあの子に、お金がなくて大変だと言うあの子に、かけられる言葉は学んできたはずなのに、その人の持つ背景を考えると途端に言葉がでなくなるのだ。「がんばってね」も「負けないでね」も「そのままでいいよ」も、全て私の言葉であって、私のものであって、相手が受け取ろうとしなければ相手のものにはならないし、相手が受け取ったとしても、それは違う言葉になる。やわらかいボールを掴んだとき、私の手と、他者の手は形が違うから、ボールの形だって違ってくるんだ。

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  結局、そうやって考えてしまえること自体が、大人になったということだと、誰かに聞かなくたってわかる。私はどうやったって大人になってしまったのだ。卑怯でもなんでも。けれど、14歳の私が紡いだ線の延長上に大人の私が、大人の他者がいることなんて、あの頃は知らなかった。大人という卑怯なヤツになるくらいなら、死んだ方がましだと思っていたのに、時間が経つことで、出来事の形や色が変わることが面白くてたまらない。今しかない、今、ここに動いているのは、文章を書けるのは、現在の私しかいない。けれど、その文章の意味をかたどってきたのは、大人を憎んでいたあの頃の私が積み重ねた感情だ。改めて思う。つらかったあの時、大人を嫌っていたあの時、「嫌ってくれてありがとう」と。だからこの文章が書けるから。私の言葉を作ってくれてありがとう、過去の私。

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