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【能登半島地震】生まれて初めて、被災地支援のために動こうと決めた理由。

夜明け前、世界がいっとう暗く沈むこの時間帯。
おはようございます、いつきです。

昨夜は日付けが変わる前に布団に入ったものの、ドキドキと落ち着かず、三〜四時間ほど浅く眠って今を迎えました。
能登をはじめとした被災地の方々にとっては、どんなにか厳しく、不安な夜だったことでしょう。想像するだに、胸が締め付けられます。

何もできないくせに不安ばかり訴える心を落ち着かせるため、昨夜は少しの間だけ、被災地の情報から遠ざかっていました。
代わりに、わたしにもできる被災地支援のやり方は無いか、インターネットも使いながらじっくりと考えてみたのです。

恥ずかしながら、わたしはこの歳まで一度も、被災地を支援する活動にまともに参加したことがありません。
けれど、今回は動かなければと思いました。
知識もなく、覚悟もない、素人の浅慮な行動で終わるかもしれません。それでも、わずかでも力を添えることが、今のわたしにとって必要なことだと感じています。

今朝はわたしが生まれて初めて、被災地支援をすることを決めた理由をまとめます。具体的な手段については、長くなるので別記事に分けたいと考えています。

先述したようにわたしには知識がなく、覚悟も充分とは言えません。大したことは書けませんが、何よりわたし自身への決意表明としてメモを残しますので、もし可能であれば、皆さまの気付きや取り組みをコメントで教えていただけると幸いです。

わたしが能登を支援すると決めた理由

わたしは今まで、被災地支援のために具体的な行動を起こしたことがありません。
何かしたことがあったとしても、せいぜい、財布の小銭を街角の募金箱に投入したことがあるくらいです。

ですが今回の能登半島地震については、もっと具体的に、何か行動したいと感じました。その理由は、2つあります。

①能登を最近、訪れたことがあるから
②社会とつながっている実感を、今のわたしが必要としているから

いずれも、びっくりするくらい個人的な理由です。
もっと、被災地の状況に深く心を痛めて……とか言えれば良いのですが、被災地の悲嘆に共感するだけでなく、そこから一歩踏み出して行動するためには、わたしにはこれらの「個人的な理由」が動機として必要だったのです。

①能登を最近、訪れたことがあるから
昨年(2023年)9月、わたしは父と二人で、金沢・能登エリアを訪れました。
父の古希(数え年70歳)を祝うことにかこつけて、わたしの念願であった金沢旅行を実現させた形での訪問でした。

わたしは鳥取県に住んでいますが、日本海側は太平洋側に比べて公共交通機関が弱く、同じ日本海側同士であるからこそ能登エリアは移動が大変な場所。豊かな自然と洗練された独自の文化、あでやかな工芸品に囲まれた金沢は長く憧れの地でしたが、何かの大きな機会でもないと、ふらっと訪れるにはややハードルが高かったのです。

行程はまず、鳥取から一旦神戸の実家に移動して一泊。翌日車で神戸〜能登間を移動して、能登半島にある国民休暇村(休暇村能登千里浜)で二泊しつつ、金沢を観光。また神戸に戻って一泊してから鳥取へ戻るというもので、計4泊5日の、わたしにしては長期の旅行となりました。

結果は、大満足!忘れられない旅になりました。
茶の湯文化が根差した金沢で、地域から愛される和菓子屋さんで上生菓子を買い求めたり、お茶屋の建物を見学したり。風雅な金沢の町並みを満喫したのはもちろん、何より感動的だったのは、能登半島の海岸線に広がる千里浜なぎさドライブウェイから眺める夕陽でした。

千里浜なぎさドライブウェイにて

千里浜なぎさドライブウェイは数kmにわたって広がる天然の砂浜ですが、砂がよく締め固まっており密度が高いため、自動車が乗ってもタイヤが沈んだり、砂が巻き上がったりしにくいという特性があります。砂浜であるにもかかわらず普通車でも走行できる道路として、多くの人が波打ち際のドライブを楽しむスポットとなっているのです。

あくまで天然の砂浜であるため、波が高いなど条件によっては走行できないようですが、わたしが訪れた日は運良く穏やかな天候でした。
波打ち際に車を停め、父と二人眺めた夕陽の美しかったこと!
千里浜なぎさドライブウェイは金沢と休暇村能登千里浜を移動する経路近くにあったので、父とわたしは金沢市街へと観光に繰り出す行き帰りの全てで、千里浜なぎさドライブウェイを通過するようにして美しい日本海の眺めを堪能しました。

あれが9月中旬のこと。
それから、まだたったの三ヶ月半しか経っていません。

あの美しい砂浜にはもしかすると、地震発生時も多くの人がいて、元日の海を眺めていたのかもしれないと思うと肝が冷えます。
あの美しい金沢の町が、お正月の茶会で忙しくされていただろう和菓子屋さんや伝統ある建屋を守り続けてこられたお茶屋さんが、激しい揺れに襲われたのかと思うと心配でなりません。

どうか、わたしがまた訪れたいと願った、美しい場所のままであって欲しい。地震でダメージを受けていたとしても、それを修復できるだけの支援がなされますように。

これが、わたしが能登を支援したいと思った、ひとつめの動機です。

②社会とつながっている実感を、今のわたしが必要としているから
わたしは今、うつと不眠を理由に休職して2年目になります。
二年間、自宅にこもってひたすら自分の心と身体に向き合う日々。ある意味贅沢で、充実した時間です。生来ひとりの時間が必要な気質であることも手伝って、特に苦痛を感じることも無かったのですが、ふとした時に社会や人とのつながりを求めている自分に気が付きました。

離れて暮らす家族に季節の便りを書いてみたり、
今までは眺めるだけだった、youtubeのライブ配信にチャットで参加してみたり。
しまいには「友達が欲しいな」と呟くようになり、ここ10年は友人を増やすどころか、人間関係を整理して付き合いを減らす一方だった自分がどういう心境の変化かと、我ながら驚いたりもしました。

別に、誰かに話を聞いてもらいたいとか、そういうわけではないのです。
ただ、自分が何かのグループ……家族だったり、友人関係だったり、同じyoutubeチャンネルを支持する同士だったり……に所属していて、居場所があることを確認したい。そんな衝動が、時折訪れるようになりました。

おそらく、職場という大きな居場所から離れたことで、自分が社会の中で宙ぶらりんになってしまったように感じているのだと思います。
調子が戻らないため復職はまだできないにしても、代わりの居場所が欲しくなったのです。

そうして居場所探しをするにつれ、不思議と社会の役に立ちたい、誰かのために動きたいという気持ちも強くなってきました。
うつと不眠は依然として抱えたままで、満足に何ができるわけでもないのですが、これはおそらく、人間が働きたいと思う時の根源的な動機のひとつなのだと思います。
誰かが困っているという話を聞いては、自分が力になれることはないかと考える。なかなか行動に移せないにしても、こうした心の動きは、自分にとって良いもののような気がして、大切に受け止めたいと考えるようになりました。

そして昨日の夕方、能登半島地震の報道に触れたとき。
今までより一層、自分に何ができるか、考える必要があると強く感じました。
この直感を見過ごすことなく、真摯に向き合っていこうと思っています。

以上が、わたしが能登半島地震に際して、被災地支援のために動きたいと思った理由です。
生命の危険にさらされている方々を前に、つまらないことを長々と語ってしまいましたが、例え喫緊の危機が去ったとしても、被災者のケアや被災地復興のためには長い時間と、丁寧に被災地に向き合う姿勢が必要となります。
今日の決意を、数ヶ月、数年、忘れないために。
初志を記録するため、本記事を投稿いたします。

別途、別記事にて具体的に取り組みたい内容についてもご報告するつもりですが、何分わたしには思慮や知識が足りません。
皆さまのお気付きや取り組まれていることがあれば、コメントなどで教えていただけると嬉しいです。

2024.01.02 夜明けの直前 いつき

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