小説 トビの舞う空 第3話
舜太は中学生になった。
部活動は美術部に入ろうと舜太は決めていた。大好きな絵を毎日思う存分描く事ができると大いに期待していた。
美術部の顧問の先生は、まず基本からと、美術室にある銅像のレプリカや、古びた果物の模型などのデッサンばかり描かせた。
顧問は、部員達の描いている様子を腕組みしながら見て周った。この線をもっと太く、影の位置が違う、など舜太のデッサンを見て指導した。
自由に描けると思っていた舜太は、次第に描く事に楽しさを感じられなくなっていた。
一年生で美術部に入った男子は、舜太と丸メガネに小太りの渡辺の二人だけだった。
渡辺は、顧問の細かい指摘を素直に聞き、どんどんデッサンが上手くなっていった。
「渡辺のデッサン上手いな、本物そっくりだ」
舜太は渡辺のデッサンを見て言った。
「うん、でも僕の絵には何か足りないんだ。舜太の絵には力みたいなものがある」
「そうかなあ、先生にはダメ出しばかりされるけど」
舜太はどう見てもへたくそな自分のデッサンを眺めた。
「舜太の絵は良いよ!そのまま自分の思いのまま描いて欲しい」
渡辺はそう言って舜太に笑い掛けた。丸顔の渡辺は、笑うと両頬にえくぼが出来た。
おしゃべりに気付いた顧問がこちらに来た。渡辺のデッサンを見てうなづくいた。そして舜太には渡辺を見習うように言った。
デッサンがしたくて美術部に入ったのでは無い、僕は風景が描きたい、一体何時になったら自由に絵を描かせてもらえるのだろう。退屈なデッサンばかりの美術部に舜太はうんざりしていた。
デッサン地獄がしばらく続き、ようやく自画像を描けることになった。
水彩画しか描いた事が無い舜太は、初めての布のキャンバスと油絵具が嬉しかった。
キャンバスの横に鏡を置き顔を写す。舜太は下書きもそこそこに、心の感じるままに描いた。江島早雲の真似をして、油絵具をほとんど薄めず、ベタベタとキャンパスに塗りたくった。
渡辺は舜太の自画像を見て、おおと驚いた。他の部員達は変な絵だ、と最初は笑っていたが、独特なタッチの舜太の絵に次第に引き込まれた。
「わあ、すごい!」
カレンちゃんが舜太の絵を覗き込んでいた。いつの間に美術室に入って来たのだろう。
「サーフィンは?」
「今日は波が良くないの、だから舜太の絵を見に来た」
「完成したらたら教えてね、また来る」
サラサラの茶髪を靡かせて美術室から出て行くカレンちゃんに、美術部の男子達が一斉に目をやった。
「舜太、あの子学校一可愛いと噂だぞ!友達なの?」
渡辺が目を見開いて言った。
それからカレンちゃんは放課後になると、頻繁に美術室に顔を出すようになった。
「渡辺くん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
カレンちゃんは、来ると隣の渡辺に微笑み掛けた。渡辺はいつも真っ赤になって俯きながら返事した。
自画像が完成し、美術部内で発表会が行われた。部員達の自画像を顧問が一つ一つ見せ批評をした。
「これは素晴らしい。良く描けてます」
渡辺の自画像は、写真と見間違える程の出来だった。部員達は渡辺に大きな拍手を送った。
次はいよいよ舜太の絵だ。舜太は自信満々だった。
「何ですか?コレは、木目ですか?」
舜太の自画像をマジマジと見て顧問は言った。
「ハハハハハ」
舜太は部員達の嘲笑を浴びた。先生の言葉に愕然とした。
舜太の自画像は茶と黒の背景に、白目の部分だけが浮き上がっている。木目に見えると言えば、そうかもしれない。
舜太は江島早雲に言われた通、り、心の感じたままに、全身全霊魂を込めて描いた。
デッサンが足りない。しっかり見て描きなさい。絵の具が勿体無い。顧問は舜太の自画像を酷評した。
「木目か...」
舜太は呟いた。
絵は上手く描こうと思うな、心で描け、と江島早雲に教わった。でも僕の絵は誰の心にも響かなかった。舜太はうなだれていた
「舜太、僕は木目なんて思わないよ、すごい絵だと思うよ」
渡辺は落ち込む舜太の肩に手をやり励ました。
顧問に「木目」とけなされてから、舜太は美術部に行く気がすっかり失せてしまった。ついには幽霊部員になりほとんど美術室に顔を出さなくなった。
舜太は放課後になると、スケッチブック片手にいつもの海岸に向かった。そして大好きな風景を思う存分描いた。
「おお!良いじゃん、やっぱり舜太の絵にはパワーがあるよ」
美術部を早々に抜け出して渡辺が自転車でやってきた。
最近、毎日の様に海岸に来る渡辺だった。舜太の絵が見たいのもあるが、カレンちゃんのサーフィンを見るのもその目的の一つだった。
「まだまだ全然ダメ!江島早雲の絵はこんなもんじゃ無い」
「舜太は江島早雲の絵を見た事があるの?」
「毎日見てるよ、だって僕の部屋にあるんだもん」
「ウソだろ!あの江島早雲の絵を持ってるの」
「そうだよ、ここで貰ったんだ」
「え、ここで?」
「そう、江島早雲はこの海岸で描いてたんだ、僕はいつも見てた、色んな話もしたよ」
頼むからその絵を見せてくれ、と懇願する渡辺を連れて舜太は家に向かった。
渡辺はトビの舞う空の前に座ると、長い間見入っていた。
「こんなすごい絵を毎日見てたのか」
ようやく渡辺は口を開くと、舜太に言った。
「舜太の描く絵に力がある訳がわかった」
「な、すごいだろ、僕もいつかこんな絵が描ける様になりたいんだ」
「そうだな、オーラと引力が半端ない」
「僕の絵はまだまだだよ。カレンちゃんの絵も見に行こう」
「カレンちゃんも江島早雲の絵を持ってるの!」
「カレンちゃんと僕が描かれてるんだ」
「見たい見たい!絶対見たい!それってカレンちゃん家に行けるの?」
「あたりまえじゃん」
カレンちゃんの家と聞いた途端、渡辺は頬を紅潮させた。
「カレンちゃんのお父さんってサーファーなんでしょ?」
「そうだよ、めっちゃ怖いよ」
舜太の冗談を真に受けた渡辺は、急に青ざめた。
舜太がカレンちゃんの家のインターホンを鳴らすと、はーい今行く、とカレンちゃんが答えた。
「いらっしゃい、さあ入って」
普段着のカレンちゃんが二人を招き入れた。
靴の臭いの充満する家の玄関と違い、カレンちゃん家の玄関はいい匂いだな、と舜太は思った。
渡辺は真正面に掛けられている絵に目を止めた。
「す、スゲー!」
渡辺は絵に釘付けになった。
「よう舜太!」
カレンちゃんのお父さんが出て来た。
「こちらは渡辺君」
とカレンちゃんが渡辺を紹介するが、渡辺は絵に夢中で、ポカンと突っ立っていた。
「渡辺、カレンちゃんのお父さんだよ」
舜太が渡辺の肩をポンポンと叩くと、
「え、え、おとうさん!」
渡辺はハッと我に返った。
カレンちゃんのお父さんは、真っ黒な顔でニヤリと真っ白な歯を見せ笑った。Tシャツの袖から覗いた二の腕からタトゥーがチラリと覗いた。
渡辺は顔を引きつらせて固まっていた。
「渡辺君怖がってるじゃん、お父さんもういいから向こう行って」
「ごめんごめん、どうぞごゆっくり」
お父さんは笑いながら奥に行ってしまった。
「ごめんね、うちのお父さんあんなで、でも怖くないから大丈夫だよ、足は臭いけど」
微笑むカレンちゃんに、渡辺はホッとしたようだった。
「江島早雲に描いてもらったなんて、すごいな」
「この絵はね、みんなでハンバーガー食べてる所、三宅がトビにハンバーガー持ってかれちゃって、ウフフ」
「え、三宅?」
「この人が三宅、お爺さんの、あ、江島早雲のアシスタント、怖そうなおじさんだけど、とっても面白くて優しい人なんだよ、ああ三宅元気かなあ」
「江島早雲は、いつも三宅が運転する軽トラで来て、あの海岸でトビの舞う空を描いたんだ」
「いいな、僕も江島早雲に会いたかったなあ」
それから渡辺は美術部の顧問を「木目オヤジ」と呼ぶ様になった。アイツの言う事はもう聞けない、と舜太と同じく美術部の幽霊部員になった。
放課後はスケッチブックを抱えて、舜太と渡辺は海岸で風景画を描いていた。
渡辺の絵は緻密に描き込まれ、遠目では写真と見間違えるほど、写実的だった。
舜太の絵は、大まかで抽象的だが、風、波の音、匂いなど空気感を感じるものだった。
「いいね、二人共」
カレンちゃんがサーフボードを抱え、髪の毛からポタポタ雫を垂らしながらやって来た。
渡辺はカレンちゃんとすっかり仲良くなった。あれほど恐れていたお父さんともいつの間にか親しくなっていた。
その日、舜太が遅れて海岸に着くと、渡辺、カレンちゃん、お父さんが何やら楽しそうに話していた。
見た目オタクで、大人しいイメージの渡辺だが、実はよく喋る。ジョークも交え、話は舜太よりも格段に長けていた。
渡辺がカレンちゃんと仲良くなって嬉しい、でも余り仲良くなり過ぎるのも嫌だ。舜太は複雑な心境だった。
その日もカレンちゃんは渡辺とばかり話している。時折放つ渡辺ギャグにカレンちゃんは大笑いしていた。
本当は舜太も話に加わりたい、一緒に笑いたい。だが元来口下手な舜太は話しかけるタイミングがわからず、黙々とスケッチブックに向かっていた。
舜太に気を使ってなのか、カレンちゃんは時折舜太に話を振った。その都度、舜太がそっけない返事をするので、会話が途切れた。
不機嫌だと思われていないか、気を遣わせて無いか、そんな事ばかり考えて、舜太は気が散って集中できなかった。
「あー、今日はもう帰るわ」
舜太は投槍に言うと、自転車に跨り帰って行った。
「舜太、どうしちゃったんだろ」
カレンちゃんが心配そうに呟いた。
それから舜太は海岸に行かなくなった。毎日一人部屋に篭り、トビの舞う空を眺めていた。勝手にいじけているのは自分なのだとわかってはいたのだが。
仲良かった渡辺とも最近あまり口を聞かなくなった。
舜太は目を閉じた。大好きな海岸の風景が浮かんで来た。潮風、波の音、江ノ島、富士山、空にはトビが舞う。そしてサーフボードを抱えたカレンちゃんが手を振ってこちらに駆けてきた
「しゅんた、舜太!」
ああ、カレンちゃん、カレンちゃん、返事をしたいのに声が出ない。舜太は力を込めて思い切り声を出した。
「カレンちゃん!」
ハッと目覚めると、舜太の目の前にかあちゃんのでっかい顔があった
「何だよ、かあちゃんかよ!」
驚いて舜太は飛び起きた。
「何がカレンちゃんよ、色気付いちゃって、やーね、おやつあるわよ」
そしてかあちゃんは部屋を出て行った。
「舜太、どうたんだよ、最近海岸にも来ないし」
昼休み、誰もいない教室の机に突っ伏して寝たフリをしていた舜太に、渡辺が声を掛けた。
舜太はああ、と力無く返事をした。
「カレンちゃんが心配してるぞ」
渡辺が言った。
「俺は口下手だし、絵もお前の方が上手いし、だからもういいんだよ俺の事は放っといてくれ」
「お前、わからないの?カレンちゃんはお前の事が好きなんだぞ」
舜太は顔を上げた。
「俺は舜太には勝てない、カレンちゃんの事も、そして絵だって」
「そんな事無いよ!渡辺は面白いし、絵だって先生に褒めらるし」
「カレンちゃんにとって俺は友達以上の何者でもない。きっとこれからもそうだ。あんな可愛い子と友達になれただけで俺は幸せなんだ」
渡辺は窓から校庭を見下ろした。
「俺の絵は写真みたいなもんでつまらない。でもお前の絵は違う。オーラがあるんだよ。江島早雲みたいな。それはお前の才能だ。俺はどんなに頑張ってもお前のような絵は描けない」
「何言ってんだよ!俺は渡辺の様な絵は描けない。お前の方が才能がある」
「ありがとう舜太、でも違うんだ。俺は気付いちゃったんだ、凡人だなあって。俺のレベルは木目オヤジと同じかな、ハハハ」
渡辺は笑窪を浮かべて笑った。
渡辺は本当にいい奴だ。それに比べて俺は。舜太は卑屈な自分が恥ずかしかった。
久しぶりに来た海岸の潮風はやはり気持ち良い。舜太は大きく深呼吸した。
波止めコンクリートに渡辺と並んで座った。舜太は自分の書いたスケッチブックをパラパラと見ていた。
悶々と描いていた頃の作品は、恥ずかしいほど酷い出来だった。舜太は絵を破り取り、ぐちゃぐちゃに丸めた。
「やめろよ、何でそんな事するんだ」
驚いた渡辺が言った。
「江島早雲にいつも言われた。絵は上手に描こうと思うな、感じたまま心で描け、って。こんな心の無い絵を描いてちゃダメだ、江島早雲に申し訳ない」
「そうか、心か...」
渡辺は自分のスケッチブックの作品を一つ一つ眺め始めた。そして一通り見終わると、スケッチブックを閉じて言った。
「そう言う事だったのか!俺の絵に何が足りないのかわかった!ありがとう舜太」
「渡辺は才能あると思うよ。だから一瞬にがんばろう」
「そうだな、俺絵辞めようと思ってたけど、もう少しがんばって見るわ」
見上げた空に一羽のトビが舞っていた。
「ピーヒョロロロロー」
トビに「がんばれ」と言われた様に、二人は思えた。
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