一見さん、お断り
ぼくは、このイベントの日を加えると実はこれまでに三度、花街のお茶屋さんへ行ったことがある。一度は10年以上前、その前になるともう20年以上も前になる。無論自力で行ったことなど一度もなく、いずれもお世話になっている方に連れて行っていただいた。
お茶屋さんといえば、広く知られることに「一見さん、お断り」がある。
文字通り完全紹介制のことであり、うろ覚えだけれど初めは紹介者が同伴でないと入店もできなかったような気がする。
とにかく、「そうだ 京都、行こう。」というJR東海さんの名コピーのように、「そうだ お茶屋さん、行こう。」といったノリでいけるような場所ではない。
飲食業界へ入ったばかりの頃、ぼくは一般的な会社員などをされている人たちよりは、おそらく「一見さん、お断り」や「会員制」という言葉をよく耳にしていた。職場が飲食店だったことやバブル時代であったこと、そして特に京都という土地柄もあってのことだと思う。
当時、駆け出しで何にしても浅はかなぼくは口にこそしないものの、そういった話を耳にするたびに思っていたことがある。
お客さんを選ぶとは、なんて排他的で不遜な姿勢なんや。だからステレオタイプな京都人像が「いけず」になるんとちゃうの。
そんな人を選別して見下すかのようなお店、こっちから願い下げやわ。
これこそ、「一見さん、お断り」への偏見である。
我ながら若さ故の無思慮さ、アホさに呆れる。
興味のある方は、ぜひ調べてみてほしいけれど、その意味や意図は至極真っ当な決まりごとであることがよくがわかる。また、その目的の一つには、以前書いたレストランにおけるドレスコードの意味に通ずるものもある気がする。
他にもお茶屋さんと置屋さん、芸妓さんや舞妓さん、仕出し屋さんなどのシステムを知ると、その完成度に感嘆せずにいられない。現代のビジネスや商売に当てはめてもヒントとなるものがきっとたくさんある。
そんなお茶屋さんには300年以上の歴史があるらしい。これほど素晴らしいシステムが昔からあったなんて脱帽である。
時代を超越していてすごいな、お茶屋さん。
暗黙の決まりごとやしきたりがあるため敷居が高く感じるけれど、その不文律によって由緒正しいお茶屋さんの流儀や価値観が守られ、それが文化として現在まで続いている。そしてそれを守り継承し続けるために重要だったのが「一見さん、お断り」であると考えれば、今では排他的どころか、これこそがお茶屋さんの気高い誇り高さなんだろうな、と思うようになった。
つづく